2014.06.30 Monday
サイババの夢
今朝起きた時はなんか別の夢を見ていたのですが、
そういえば、その前にサイババの夢を見ていた、と、思い出しました。
思い出せてよかった。思い出させてくれたのかな?
内容は、私は何か他のことをしていたんですが、ダルシャンがあると知って、急いでダルシャン会場に行った夢でした。
そしたら人々の間からサイババが見えました。
なので、なんかもうダルシャンはほとんど終わって意味ない?っぽかったんですが、
意味なくてもいいやみたいなかんじで自己満足的にそこに座っていたら、
そこに座っていた人たちにというか、私の方に向けてサイババが小袋にはいったビブーティーをどっさり投げて来たので、周りに散ったものは周りの人も取ったんだけど、
私はとりあえず、全力で受け取れるだけ受け取った。笑
そしてそれに続いて直径1メートルくらいの袋に入った甘いお菓子の固まりの巨大なプラサードも2〜3種類投げて来ました。
さすがにそれは全部は受取れきれなくて、周りの人たちももらって分けて、
私もその巨大な袋のうちのひとつを受け取って、袋をちょっと破ってひとかけら食べたら甘くて美味しかった。
そののこりは他の人に回して分けたかもしれない。
その後近くでサイババと話したのかもしれないけどそこらへんは忘れました。
そんな夢でした。
私はいつも常にどこかで無茶をしてるんですが、
今も、このインド占星術関連の仕事をしながらアカシックレコードリーディングの練習をしたりしてて、
一応いつも自分のなかで聞きながら、方向性を見ながらやってはいるんですが、わずかに残った?理性の部分が余計なことをせずに自分の状況をもっと安定させろとか、そういう保守に導くようにささやきかけて、
私もそうしたいのはやまやまで、無理せずに余裕のある優雅な暮らしを楽しみたいと思う気持ちがいつもあるんですが、それとは裏腹にいつも少し限界を超えて無茶をし続けて20年というかんじです。
その結果、たぶんちゃんとしがみついていればいいものにきちんとしがみつくことが出来ないで色んなものを失っていくのですが、
そういうのを残念に思う気持ちがないわけではない。
私は狂っているのだろうか?
と思うまでもなく、実家の人たちなどはそのようにみなしてるようで、
社会不適応者として見下げて否定・排除の方向なんで、そういう他者からの影響(それも自覚薄いとはいえ、一人ひとりのうちに宿る神の創造活動ですから)のないとこにと思って、また、10年前から10年後は長野と思ってたそのタイミングも来てたので、長野の山奥で一人で住み始めたわけなんですが、
自分でも、今自分の状態とか、立ち位置とか、どうなんだろうと思うこともあります。
方向性は間違ってないと思うんだけど、
いつものごとく常に無理目な感じで、常に余裕なくきつくギリギリな感じで動いている。
ある意味常に新鮮なんだけど、それもずっとだとたまに疲れるような気がする時もあるし。
常に色んなことに手一杯で。
色んなことやりすぎなんじゃないのか?とか。
たとえばヴェーダチャンティングを極めたいという思いがあったけど、それはホントに行けるところまで行きたいという思いがあったんだけど、
ずっとそのようにはならず、ある程度のとこまで行ったら次のレールにのせられた感じで。
それはこのインド占星術関連の仕事を通しての活動だったんですけど、
なかなかきついものもありつつ、
それもやはり関わり方に波があって、
今は具体的な仕事は出来るだけ他の人に分担して行くように心がけてるのですが、
それもなんか一杯一杯な感じで分担の仕方もゆったりしてるようなそうでないような、
わたしを流れてる性質として常にすべてが流動的、というのがあって、
それが仕事にもそのままそういう性質になってるような気がします。
なので分担先もそのようになってるような。
かっちりしてないんですよね。そうしたいなとは思うんですけど、何かがそうさせない。
そうしたいんだけど。
私自身をこの仕事からある程度自由にさせる必要性を感じて、自分を建て直すためにもスクールに通ったんですけど、
そしたらなんかリーディングの方向に今は乗っちゃってる感じで。
しかもお客さんが毎日誰かしら来てくれる。まだ大した実力もないのに。
でも、占星術でもそうだったんですけど、いや、占星術はやっぱりある部分パワフルで、
プージャってかなり強力なツールで、人の望みとか足りないエネルギーとかを強力に補ってくれるのでその意味ではすごく信頼感あります。
それもある程度までで、そこではまりきれないとこや、補いきれない部分は出てくるんですが。
ほとんどの人の場合にインド占星術やプージャって常にものすごく有効だと思います。
ただ、私としては、私自身の経験からも、そこからこぼれる部分こそがその人がその人自身として生きていくエリアへの鍵とか、そんな気もして、
占星術、星の影響も及ばないその奥の深奥の部分に立脚することは人がほんとうに自分自身として生きていくときに不可欠な要素なんじゃないかなとも思っています。
でも普段生きていく上で占星術的要素は一般常識的に利用して取り入れる分にはすごく有効だと思うので、否定する必要もないし、共存できるとも思います。
人はいつも最奥の深奥の状態で居続ける必要もないので。
ただ、そこへの通路はあけておく必要があって、必要なときにいつでもアクセスできる状態にしておく必要はあると思う。
そう、それで、占星術のお客さんもそうだし、リーディングのお客さんでも、もう、小手先のというか、対症療法的なことではなくてほんとうに自分自身とつながるくらいしかやること残ってないような人がたくさんいて、
ていうか、そういうとこにつながってるからこそ、この現実世界とのギャップに混乱してどう生きていいかわからなくなってたりとか。
そういう真我的なものとこの現実世界とのコラボがなかなか難しい。
わたしも社会不適応とか、社会性ゼロとか色々いわれながらも案外うまくやってる方で、
現実生活において、いつもきつきつな面はあるし、やはり現実生活においていつも無茶や無理を通し続けてる面はあるんですが、
自分のなかでの迷いのようなものはあまりないから案外その点は心地よく生きていけてるように思います。
現実生活でももっと守られてる感じとか、安定感が欲しいなあというあこがれのようなものがないわけではないのですが。
そしてそれは常に掴める位置にあるのですが。
でも今の時点でそれを掴んでもきっと私には苦しみになるんだと思います。
なので無理、無茶、わがままと、自分でも思いながらもそれを通すしか出来ないある意味残念な自分がいて。
鑑定だと、まだ、色んなことが出来るような気持ちになったりもするんです。
プージャとかできるから。
それでも程度はありますけど。
でもリーディングだと、ほんと無力だなーとしみじみ実感すると言うか。
アプローチの仕方が違うとまた違うのかもしれなくて、例えばチャネリングとかだったら高次のメッセージみたいな感じでひとっ飛びにクライアントの意識も飛躍したりするかもしれないし力強いかもしれないなと思ったりもするんですけど、
アカシックリーディングは言ってみればクライアントさんの意識の範疇の外のものはもたらされない感じがあって。
だからほんとうにその人が自分で何かをどうにかするしかないという感覚がします。
外からの力としての働きかけが出来ない仕組みになってる感じがする。
そしてそれにはリーディングのいわばクライアントの状態への対症療法的な1時間では根本的な部分で足りないかんじがして。
・・・・それで、根本的なとこに働きかけられるようなものも持てたらと思って、
自分で基礎的なコースとかも開催できるようになるらしい、インストラクターのコースも受けようかと検討したりしてるんですが、
それをやるとほんとにさらにいろいろキツキツだなとは思うんですけど。
課題とかも、今属してる専科の課題もすでにいっぱいあるし。
でもがんばってみようかな。
無茶に無茶を重ねて。
加えて、7月には税金の関係もあって個人事業主もしくは合同会社の形にもすることにしたのですけど、まだどっちにするかも決めかねてるという。
なんか知識ある方はアドバイスいただけるとありがたいです。
アドバイス頂いてもたぶんあんまり言うこと聞かなかったりするんですけど。。。それ前提で。
話がだいぶそれたけど、
そういう、なんか色んなことが同時進行で、のんびりしてるくせに常にあっぷあっぷが続いてる自分に、客観的な視点を持つ自分が半ばあきれ&うんざりなのですが、ババに色んなものもらえてよかった。
気持ちが落ち着きました。
このままでいいんだな、と。
たぶんこれは私のまっすぐな道なんだと。
日本でのアティルッドラは無理にやって出来るようなものではないけど、まだあきらめてはいません。
出来る機会がもし巡って来たならやればいいと思ってます。
の占星術鑑定のレポート作りはようやくバラティさんも落ち着いて来たので始めるみたいです。
たぶんあきれ&あきらめながらも見守ってくださってる、関わり続けてくださってるこのショップのお客さんたちにはいつも感謝です。
ありがとうございます。
そういえば、その前にサイババの夢を見ていた、と、思い出しました。
思い出せてよかった。思い出させてくれたのかな?
内容は、私は何か他のことをしていたんですが、ダルシャンがあると知って、急いでダルシャン会場に行った夢でした。
そしたら人々の間からサイババが見えました。
なので、なんかもうダルシャンはほとんど終わって意味ない?っぽかったんですが、
意味なくてもいいやみたいなかんじで自己満足的にそこに座っていたら、
そこに座っていた人たちにというか、私の方に向けてサイババが小袋にはいったビブーティーをどっさり投げて来たので、周りに散ったものは周りの人も取ったんだけど、
私はとりあえず、全力で受け取れるだけ受け取った。笑
そしてそれに続いて直径1メートルくらいの袋に入った甘いお菓子の固まりの巨大なプラサードも2〜3種類投げて来ました。
さすがにそれは全部は受取れきれなくて、周りの人たちももらって分けて、
私もその巨大な袋のうちのひとつを受け取って、袋をちょっと破ってひとかけら食べたら甘くて美味しかった。
そののこりは他の人に回して分けたかもしれない。
その後近くでサイババと話したのかもしれないけどそこらへんは忘れました。
そんな夢でした。
私はいつも常にどこかで無茶をしてるんですが、
今も、このインド占星術関連の仕事をしながらアカシックレコードリーディングの練習をしたりしてて、
一応いつも自分のなかで聞きながら、方向性を見ながらやってはいるんですが、わずかに残った?理性の部分が余計なことをせずに自分の状況をもっと安定させろとか、そういう保守に導くようにささやきかけて、
私もそうしたいのはやまやまで、無理せずに余裕のある優雅な暮らしを楽しみたいと思う気持ちがいつもあるんですが、それとは裏腹にいつも少し限界を超えて無茶をし続けて20年というかんじです。
その結果、たぶんちゃんとしがみついていればいいものにきちんとしがみつくことが出来ないで色んなものを失っていくのですが、
そういうのを残念に思う気持ちがないわけではない。
私は狂っているのだろうか?
と思うまでもなく、実家の人たちなどはそのようにみなしてるようで、
社会不適応者として見下げて否定・排除の方向なんで、そういう他者からの影響(それも自覚薄いとはいえ、一人ひとりのうちに宿る神の創造活動ですから)のないとこにと思って、また、10年前から10年後は長野と思ってたそのタイミングも来てたので、長野の山奥で一人で住み始めたわけなんですが、
自分でも、今自分の状態とか、立ち位置とか、どうなんだろうと思うこともあります。
方向性は間違ってないと思うんだけど、
いつものごとく常に無理目な感じで、常に余裕なくきつくギリギリな感じで動いている。
ある意味常に新鮮なんだけど、それもずっとだとたまに疲れるような気がする時もあるし。
常に色んなことに手一杯で。
色んなことやりすぎなんじゃないのか?とか。
たとえばヴェーダチャンティングを極めたいという思いがあったけど、それはホントに行けるところまで行きたいという思いがあったんだけど、
ずっとそのようにはならず、ある程度のとこまで行ったら次のレールにのせられた感じで。
それはこのインド占星術関連の仕事を通しての活動だったんですけど、
なかなかきついものもありつつ、
それもやはり関わり方に波があって、
今は具体的な仕事は出来るだけ他の人に分担して行くように心がけてるのですが、
それもなんか一杯一杯な感じで分担の仕方もゆったりしてるようなそうでないような、
わたしを流れてる性質として常にすべてが流動的、というのがあって、
それが仕事にもそのままそういう性質になってるような気がします。
なので分担先もそのようになってるような。
かっちりしてないんですよね。そうしたいなとは思うんですけど、何かがそうさせない。
そうしたいんだけど。
私自身をこの仕事からある程度自由にさせる必要性を感じて、自分を建て直すためにもスクールに通ったんですけど、
そしたらなんかリーディングの方向に今は乗っちゃってる感じで。
しかもお客さんが毎日誰かしら来てくれる。まだ大した実力もないのに。
でも、占星術でもそうだったんですけど、いや、占星術はやっぱりある部分パワフルで、
プージャってかなり強力なツールで、人の望みとか足りないエネルギーとかを強力に補ってくれるのでその意味ではすごく信頼感あります。
それもある程度までで、そこではまりきれないとこや、補いきれない部分は出てくるんですが。
ほとんどの人の場合にインド占星術やプージャって常にものすごく有効だと思います。
ただ、私としては、私自身の経験からも、そこからこぼれる部分こそがその人がその人自身として生きていくエリアへの鍵とか、そんな気もして、
占星術、星の影響も及ばないその奥の深奥の部分に立脚することは人がほんとうに自分自身として生きていくときに不可欠な要素なんじゃないかなとも思っています。
でも普段生きていく上で占星術的要素は一般常識的に利用して取り入れる分にはすごく有効だと思うので、否定する必要もないし、共存できるとも思います。
人はいつも最奥の深奥の状態で居続ける必要もないので。
ただ、そこへの通路はあけておく必要があって、必要なときにいつでもアクセスできる状態にしておく必要はあると思う。
そう、それで、占星術のお客さんもそうだし、リーディングのお客さんでも、もう、小手先のというか、対症療法的なことではなくてほんとうに自分自身とつながるくらいしかやること残ってないような人がたくさんいて、
ていうか、そういうとこにつながってるからこそ、この現実世界とのギャップに混乱してどう生きていいかわからなくなってたりとか。
そういう真我的なものとこの現実世界とのコラボがなかなか難しい。
わたしも社会不適応とか、社会性ゼロとか色々いわれながらも案外うまくやってる方で、
現実生活において、いつもきつきつな面はあるし、やはり現実生活においていつも無茶や無理を通し続けてる面はあるんですが、
自分のなかでの迷いのようなものはあまりないから案外その点は心地よく生きていけてるように思います。
現実生活でももっと守られてる感じとか、安定感が欲しいなあというあこがれのようなものがないわけではないのですが。
そしてそれは常に掴める位置にあるのですが。
でも今の時点でそれを掴んでもきっと私には苦しみになるんだと思います。
なので無理、無茶、わがままと、自分でも思いながらもそれを通すしか出来ないある意味残念な自分がいて。
鑑定だと、まだ、色んなことが出来るような気持ちになったりもするんです。
プージャとかできるから。
それでも程度はありますけど。
でもリーディングだと、ほんと無力だなーとしみじみ実感すると言うか。
アプローチの仕方が違うとまた違うのかもしれなくて、例えばチャネリングとかだったら高次のメッセージみたいな感じでひとっ飛びにクライアントの意識も飛躍したりするかもしれないし力強いかもしれないなと思ったりもするんですけど、
アカシックリーディングは言ってみればクライアントさんの意識の範疇の外のものはもたらされない感じがあって。
だからほんとうにその人が自分で何かをどうにかするしかないという感覚がします。
外からの力としての働きかけが出来ない仕組みになってる感じがする。
そしてそれにはリーディングのいわばクライアントの状態への対症療法的な1時間では根本的な部分で足りないかんじがして。
・・・・それで、根本的なとこに働きかけられるようなものも持てたらと思って、
自分で基礎的なコースとかも開催できるようになるらしい、インストラクターのコースも受けようかと検討したりしてるんですが、
それをやるとほんとにさらにいろいろキツキツだなとは思うんですけど。
課題とかも、今属してる専科の課題もすでにいっぱいあるし。
でもがんばってみようかな。
無茶に無茶を重ねて。
加えて、7月には税金の関係もあって個人事業主もしくは合同会社の形にもすることにしたのですけど、まだどっちにするかも決めかねてるという。
なんか知識ある方はアドバイスいただけるとありがたいです。
アドバイス頂いてもたぶんあんまり言うこと聞かなかったりするんですけど。。。それ前提で。
話がだいぶそれたけど、
そういう、なんか色んなことが同時進行で、のんびりしてるくせに常にあっぷあっぷが続いてる自分に、客観的な視点を持つ自分が半ばあきれ&うんざりなのですが、ババに色んなものもらえてよかった。
気持ちが落ち着きました。
このままでいいんだな、と。
たぶんこれは私のまっすぐな道なんだと。
日本でのアティルッドラは無理にやって出来るようなものではないけど、まだあきらめてはいません。
出来る機会がもし巡って来たならやればいいと思ってます。
の占星術鑑定のレポート作りはようやくバラティさんも落ち着いて来たので始めるみたいです。
たぶんあきれ&あきらめながらも見守ってくださってる、関わり続けてくださってるこのショップのお客さんたちにはいつも感謝です。
ありがとうございます。