2013.08.31 Saturday
どうして元気がなくなるのか
ちょくちょく元気がなくなるのですが、
今日はしくしく、めそめそでした。
子供が日本に帰ったからとかそういうのではないのですが、
やっぱ、いやな記憶。悪意。否定。
それにさいなまれ続けている自分がいる。
そして、ちょっともうどうしようもないなと思って、セルフカウンセリング的に書く作業をしてました。
書いて吐き出してるうちに楽になってきた。
そして途中で気がついたのですが、
なぜそのような記憶にさいなまれ続けてるかというと、
それが隠されたものだからだという、そのことに思い当たりました。
嫌なことがあったんですが、
一連の出来事の関係者たちに私は最も傷つく形でサタンだとかいわれ、
それはその人たちの不正や卑怯さ、隠された意図や欲望、偽善のようなものを正当化する手段でもあったと思うんですが、
スピリチュアル界の陰湿ないじめですよね。集団意識による。
ま、自分にはよくあることではあるんで慣れっこなんですけど、この場合は信頼して無防備に心を開いていた人の裏切りを伴っていたから最高にきつかった。
自分の大好きなお母さんもいじめっ子側に加わって私をつぶしにかかってくる感じ?
な、なんで!?おかしくない!?と涙ながらにいうと、お母さんはおののいて、やっぱこの子は平常心もないし、おかしな態度をするからもともと悪だったんだ、うざい!こわい!という認識を深めていじめっ子たちへの傾倒と愛着をますます深めるかんじ。
いじめっこはお母さんにこの子はサタンだから罪悪感なしに切れと子供の前で命じましたとさ。
で、親しみのある私を切った空虚感はいじめっ子の意図を共有するおすすめの、私みたいにおかしな子じゃない別の、褒めちぎってくれていろいろしてくれる素敵な子が埋めたので、手のかかるめんどくさいわたしのことはすぐ不要になった。
ね、きついでしょ?悲しいし。
最初はあまりの冗談みたいなことになんてこった、と、ばかばかしくて笑ったけど、どうも本気らしいと知るにつれて、ばかばかしいことがまともと思われてる世界に心のそこからガックリした。
お母さんもいじめっ子に顕在意識領域と無意識領域などさまざまなところ、あらゆるチャクラを通じて意識を侵食されて、導かれ、彼らの意図と自分の意図を溶け合わせ、私がネガティブな遺棄すべき存在だと積極的に信じていく過程をつぶさに見てしまった。
でももう侵食されきったので切り離せない。
人をそこまでネガティブな存在とみなすことがそもそもちょっとどうなん?おかしくない?
と私なんかは思うんですけど、
ま、スピリチュアル界にはよくあることですよね。
だから私はこの狭い世界が嫌い。
裏切られて心がやぶれた状態の私に、私が悪だから情けをかける必要はないという、その人の属する集団意識からの嘲笑と追い討ちでとどめ。
あ〜、信頼してた人にはそういう集団意識の攻撃から護って欲しかったなー、というか、普通そこまで信頼しあってたら護るでしょ、と思うんですが、裏切りの罪悪感を、集団意識のサポートをもらって正当化して心を楽にするために悪として切り捨てられたのは私のほうでした。
グルのいうことは絶対らしい。
グルの周りの人たちもグルがそういってるんだからどうして迷うんだとか言ってた。
冗談としか思えないんですけど・・・。
罪悪感はそういう風に解消してしまうと、その人の中のよいものを取り戻すのはずいぶんまた(解消したつもりの罪悪感の)痛みを伴うだろうなと思うので、
もう振り返らずにたぶんこのままいくでしょう。
それがその人にも楽だろうから。
実際は集団意識の闇の部分は光に照らされる形の変化(それは闇の部分の消滅を意味する)を望まなかったので、変化をもたらす恐れのある私が全力で攻撃されたんだと思います。
私としては、その集団の光の部分で自分ともつながってると思っていたので驚いた。
これも私のいつもの間抜けなパターンなんですが。
私は何でかその人たちの評判とかを護ろうとしてて、その人たちが傷つかないように考慮してるところがあって、(子供はいつも自分を責めて、親をかばうので。私、正統派のアダルトチャイルドです。苦笑)
ネットで書くなと少し脅されもしたし。
私はそういう、なんというか、そうは見えないかもしれないけど、他人を糾弾するような方向性は実はあまりなくて、
いつもそうなんですけど、私が自分自身どう思い、どう考え、どう感じたかということを自覚すること、自分自身の中心を感じ続けていること、それだけを大切にしてて、
私からの攻撃を想定してそういう風に脅されたことも、そういう世界に取り込まれてそういうのが当たり前の世界に触れてしまってること自体、また怖くって。
私の住む世界にはもともとそういうのないですから。
でも私がなにをどう感じたかを表明するだけでなんでか多くの人には糾弾のプレッシャーがもたらされるみたいで、
不思議ですよねえ。
これはブログに書くなと怖い感じでよく言われる。
すごく怖いみたい。
書かれるのが。
何で?その人たち、何か悪いことしたのかな?
やっぱり魂ではそういう自覚があるんでしょう。
だからわたしが「へ〜んなの!」とか書くだけですごい怖いみたい。
で、話は戻って、その人たちはその人たちの思うところの覚醒の障害となる悪の手先の私は消えたってかんじで余計者の私が死んだその世界で楽しくしてるんですが、
私はそのように踏みにじられて扱われた記憶を誰とも共有せず、一人隠して抱え続けるようにセッティングされてしまってるんですよね。
これはまさにトラウマがトラウマとして機能し続け、心を蝕み続けるために必須なこと。
表現されないものはいつまでも中で生きてるんですよね。
そのことに、先ほど気がついた。
あ、そういう風にとどめられてるな、と。
私の意見や感じたことを表現するのを禁じられてる状態。
なので、いつまでもその痛みを痛みのまま抱えて、受けた場面に貼り付けになってるような状態。
このしくみ、うまくできてるなと感心しました。
表現されてしまえばそれをつかむことになるから、その次の段階の手放して行かせることが可能になるんですよね。
それができないような、表現せず潜在意識化において抱え続けて自分自身を傷つけ続けることを強いられるようなセッティングになってる。
なのでいつまでも生傷状態。
これらをすべてを気持ちよく手放すにはあとなにが必要なのかな?
確かに足元のことは大切だけど、足元から広げてもうちょっと広く見てもいいよなと思います。
少なくとも誰かを意図的に傷つけないように。
力になれるように。
そういう視野の広さの不足が今の日本の危機的状況なんだけど、みんな今を楽しんでいて自然の痛みは直接自分のこととして感じるのをやめてしまった。
サイババ関係者の人もそのように私や子供を傷つけるような状況、(とくに近しい人に私を裏切らせることでダメージを与える役割を知らず知らずのうちに担わされそうになってるケースに)陥りそうになる場合がちょくちょくあるのですが。
サティアサイババ関係者の場合、それはババがそれをさせられそうになってるその人をそこから救い出して護るということでもあると思うのですが、
私の存在を認識できるのでそれがストッパーになって、ちょっとそれ(結果的に私への攻撃になる可能性のあること)はしたくない、という理性が入り、自分の意図や欲求より全体の調和を優先させ、結果、悪意をかぶったり不名誉になるかもしれない役割から逃れる場合が多いです。
私の気持ちへの想像力を持ち合わせてるんですね。
サティアサイババ関係者でない場合は私への想像力が薄くなるので、ストッパーにならず、自分の思うところの濃縮した意識のままで突っ走る場合が多く思います。
もしくはグルが悪である私への対策として、意図して追随者にそれをさせます。
なんかもう、最悪だし、がっくしです。
これらも結局は男性の矮小タイプの自意識と、それをそのレベルでとどめ、増長させて強化することに全力をかける、矮小タイプの女性の自意識のなせる業だと思います。
あ〜、本当に交流するといい広々したステージはそこじゃないのにな〜、
と思うんだけど、
いったんそこで息苦しくつながると、広々状態の場へのシフトがとっても難しい。
これらの全体から切り離し、信頼や協調関係をばらばらに切り離すタイプの閉じた男女関係はあえてそこにはまる必要があるのかといえば私はない。
でも世界はそのようなタイプの一見純粋エネルギーであるかのように見えるタントラに価値があるかのように思わされてます。
うーん、それはそれを超えていくためのものとしては表現形態としてあってもいいと思うけど、いまの時代にそれにはまるととても逃れるのは大変に思います。
そんなもの、タントラではなくて単なるトラップでしょう、という。
それは強さと魅力はあるけど必ず悲劇を内包しているように思う。
内包していなければその外側において悲しみが生み出される。
私としては、そうじゃないところのタントラすら超えたひろびろしたところですべてと出会いたい。
それが私の本来の安らぎだと思ってます。
それは今のこの時代においては家族と密接な関係があるように思います。
離れていても心が通い合っていればそれで充分だと思うけど、さまざまな、興奮をもたらす魅力的なトラップにあれよあれよというまにからめとられてつながりが失われて消えていく。
戻るときは一瞬なんですけどねぇ。
まあとにかく、自分の利益と安寧のために誰かを消したらいかんと思うわ。
それって卑怯やし、ちっちゃいですよ。
それに人として悲しいことでもあるきがする。
宇宙人はやりたいようにやるし人のことは気にしないという話もあって、
まあ私もそういうとこありますけど、実はすごい隅々まで考えてる。
その上で、表面的には傍若無人にしたりしてる。
でもホントに気にしないようなやりたい放題の元だんなのようなケースもあって、
それはそれでいいのかなと私も思うんですが、
単に人のことを気にしないで邪魔者を消す感じにしてるとやっぱ全体の調和、それって中途半端な集団意識じゃなくて宇宙原理レベルの、それに寄り添っていくしかしょうがないときがいつの日か恩寵として訪れるように思います。
私がひどい目にあった〜と、いろんな人に言っても、私の知り合いなんかはみんないい意味で個人主義だしお人よしだから、
誰もあんまり私の味方とかはしてくれません。笑
ただ、よりよい可能性を中立な立場で見れるから、それは残念なことだったとは思うみたい。
私もとっても残念です。
今日はしくしく、めそめそでした。
子供が日本に帰ったからとかそういうのではないのですが、
やっぱ、いやな記憶。悪意。否定。
それにさいなまれ続けている自分がいる。
そして、ちょっともうどうしようもないなと思って、セルフカウンセリング的に書く作業をしてました。
書いて吐き出してるうちに楽になってきた。
そして途中で気がついたのですが、
なぜそのような記憶にさいなまれ続けてるかというと、
それが隠されたものだからだという、そのことに思い当たりました。
嫌なことがあったんですが、
一連の出来事の関係者たちに私は最も傷つく形でサタンだとかいわれ、
それはその人たちの不正や卑怯さ、隠された意図や欲望、偽善のようなものを正当化する手段でもあったと思うんですが、
スピリチュアル界の陰湿ないじめですよね。集団意識による。
ま、自分にはよくあることではあるんで慣れっこなんですけど、この場合は信頼して無防備に心を開いていた人の裏切りを伴っていたから最高にきつかった。
自分の大好きなお母さんもいじめっ子側に加わって私をつぶしにかかってくる感じ?
な、なんで!?おかしくない!?と涙ながらにいうと、お母さんはおののいて、やっぱこの子は平常心もないし、おかしな態度をするからもともと悪だったんだ、うざい!こわい!という認識を深めていじめっ子たちへの傾倒と愛着をますます深めるかんじ。
いじめっこはお母さんにこの子はサタンだから罪悪感なしに切れと子供の前で命じましたとさ。
で、親しみのある私を切った空虚感はいじめっ子の意図を共有するおすすめの、私みたいにおかしな子じゃない別の、褒めちぎってくれていろいろしてくれる素敵な子が埋めたので、手のかかるめんどくさいわたしのことはすぐ不要になった。
ね、きついでしょ?悲しいし。
最初はあまりの冗談みたいなことになんてこった、と、ばかばかしくて笑ったけど、どうも本気らしいと知るにつれて、ばかばかしいことがまともと思われてる世界に心のそこからガックリした。
お母さんもいじめっ子に顕在意識領域と無意識領域などさまざまなところ、あらゆるチャクラを通じて意識を侵食されて、導かれ、彼らの意図と自分の意図を溶け合わせ、私がネガティブな遺棄すべき存在だと積極的に信じていく過程をつぶさに見てしまった。
でももう侵食されきったので切り離せない。
人をそこまでネガティブな存在とみなすことがそもそもちょっとどうなん?おかしくない?
と私なんかは思うんですけど、
ま、スピリチュアル界にはよくあることですよね。
だから私はこの狭い世界が嫌い。
裏切られて心がやぶれた状態の私に、私が悪だから情けをかける必要はないという、その人の属する集団意識からの嘲笑と追い討ちでとどめ。
あ〜、信頼してた人にはそういう集団意識の攻撃から護って欲しかったなー、というか、普通そこまで信頼しあってたら護るでしょ、と思うんですが、裏切りの罪悪感を、集団意識のサポートをもらって正当化して心を楽にするために悪として切り捨てられたのは私のほうでした。
グルのいうことは絶対らしい。
グルの周りの人たちもグルがそういってるんだからどうして迷うんだとか言ってた。
冗談としか思えないんですけど・・・。
罪悪感はそういう風に解消してしまうと、その人の中のよいものを取り戻すのはずいぶんまた(解消したつもりの罪悪感の)痛みを伴うだろうなと思うので、
もう振り返らずにたぶんこのままいくでしょう。
それがその人にも楽だろうから。
実際は集団意識の闇の部分は光に照らされる形の変化(それは闇の部分の消滅を意味する)を望まなかったので、変化をもたらす恐れのある私が全力で攻撃されたんだと思います。
私としては、その集団の光の部分で自分ともつながってると思っていたので驚いた。
これも私のいつもの間抜けなパターンなんですが。
私は何でかその人たちの評判とかを護ろうとしてて、その人たちが傷つかないように考慮してるところがあって、(子供はいつも自分を責めて、親をかばうので。私、正統派のアダルトチャイルドです。苦笑)
ネットで書くなと少し脅されもしたし。
私はそういう、なんというか、そうは見えないかもしれないけど、他人を糾弾するような方向性は実はあまりなくて、
いつもそうなんですけど、私が自分自身どう思い、どう考え、どう感じたかということを自覚すること、自分自身の中心を感じ続けていること、それだけを大切にしてて、
私からの攻撃を想定してそういう風に脅されたことも、そういう世界に取り込まれてそういうのが当たり前の世界に触れてしまってること自体、また怖くって。
私の住む世界にはもともとそういうのないですから。
でも私がなにをどう感じたかを表明するだけでなんでか多くの人には糾弾のプレッシャーがもたらされるみたいで、
不思議ですよねえ。
これはブログに書くなと怖い感じでよく言われる。
すごく怖いみたい。
書かれるのが。
何で?その人たち、何か悪いことしたのかな?
やっぱり魂ではそういう自覚があるんでしょう。
だからわたしが「へ〜んなの!」とか書くだけですごい怖いみたい。
で、話は戻って、その人たちはその人たちの思うところの覚醒の障害となる悪の手先の私は消えたってかんじで余計者の私が死んだその世界で楽しくしてるんですが、
私はそのように踏みにじられて扱われた記憶を誰とも共有せず、一人隠して抱え続けるようにセッティングされてしまってるんですよね。
これはまさにトラウマがトラウマとして機能し続け、心を蝕み続けるために必須なこと。
表現されないものはいつまでも中で生きてるんですよね。
そのことに、先ほど気がついた。
あ、そういう風にとどめられてるな、と。
私の意見や感じたことを表現するのを禁じられてる状態。
なので、いつまでもその痛みを痛みのまま抱えて、受けた場面に貼り付けになってるような状態。
このしくみ、うまくできてるなと感心しました。
表現されてしまえばそれをつかむことになるから、その次の段階の手放して行かせることが可能になるんですよね。
それができないような、表現せず潜在意識化において抱え続けて自分自身を傷つけ続けることを強いられるようなセッティングになってる。
なのでいつまでも生傷状態。
これらをすべてを気持ちよく手放すにはあとなにが必要なのかな?
確かに足元のことは大切だけど、足元から広げてもうちょっと広く見てもいいよなと思います。
少なくとも誰かを意図的に傷つけないように。
力になれるように。
そういう視野の広さの不足が今の日本の危機的状況なんだけど、みんな今を楽しんでいて自然の痛みは直接自分のこととして感じるのをやめてしまった。
サイババ関係者の人もそのように私や子供を傷つけるような状況、(とくに近しい人に私を裏切らせることでダメージを与える役割を知らず知らずのうちに担わされそうになってるケースに)陥りそうになる場合がちょくちょくあるのですが。
サティアサイババ関係者の場合、それはババがそれをさせられそうになってるその人をそこから救い出して護るということでもあると思うのですが、
私の存在を認識できるのでそれがストッパーになって、ちょっとそれ(結果的に私への攻撃になる可能性のあること)はしたくない、という理性が入り、自分の意図や欲求より全体の調和を優先させ、結果、悪意をかぶったり不名誉になるかもしれない役割から逃れる場合が多いです。
私の気持ちへの想像力を持ち合わせてるんですね。
サティアサイババ関係者でない場合は私への想像力が薄くなるので、ストッパーにならず、自分の思うところの濃縮した意識のままで突っ走る場合が多く思います。
もしくはグルが悪である私への対策として、意図して追随者にそれをさせます。
なんかもう、最悪だし、がっくしです。
これらも結局は男性の矮小タイプの自意識と、それをそのレベルでとどめ、増長させて強化することに全力をかける、矮小タイプの女性の自意識のなせる業だと思います。
あ〜、本当に交流するといい広々したステージはそこじゃないのにな〜、
と思うんだけど、
いったんそこで息苦しくつながると、広々状態の場へのシフトがとっても難しい。
これらの全体から切り離し、信頼や協調関係をばらばらに切り離すタイプの閉じた男女関係はあえてそこにはまる必要があるのかといえば私はない。
でも世界はそのようなタイプの一見純粋エネルギーであるかのように見えるタントラに価値があるかのように思わされてます。
うーん、それはそれを超えていくためのものとしては表現形態としてあってもいいと思うけど、いまの時代にそれにはまるととても逃れるのは大変に思います。
そんなもの、タントラではなくて単なるトラップでしょう、という。
それは強さと魅力はあるけど必ず悲劇を内包しているように思う。
内包していなければその外側において悲しみが生み出される。
私としては、そうじゃないところのタントラすら超えたひろびろしたところですべてと出会いたい。
それが私の本来の安らぎだと思ってます。
それは今のこの時代においては家族と密接な関係があるように思います。
離れていても心が通い合っていればそれで充分だと思うけど、さまざまな、興奮をもたらす魅力的なトラップにあれよあれよというまにからめとられてつながりが失われて消えていく。
戻るときは一瞬なんですけどねぇ。
まあとにかく、自分の利益と安寧のために誰かを消したらいかんと思うわ。
それって卑怯やし、ちっちゃいですよ。
それに人として悲しいことでもあるきがする。
宇宙人はやりたいようにやるし人のことは気にしないという話もあって、
まあ私もそういうとこありますけど、実はすごい隅々まで考えてる。
その上で、表面的には傍若無人にしたりしてる。
でもホントに気にしないようなやりたい放題の元だんなのようなケースもあって、
それはそれでいいのかなと私も思うんですが、
単に人のことを気にしないで邪魔者を消す感じにしてるとやっぱ全体の調和、それって中途半端な集団意識じゃなくて宇宙原理レベルの、それに寄り添っていくしかしょうがないときがいつの日か恩寵として訪れるように思います。
私がひどい目にあった〜と、いろんな人に言っても、私の知り合いなんかはみんないい意味で個人主義だしお人よしだから、
誰もあんまり私の味方とかはしてくれません。笑
ただ、よりよい可能性を中立な立場で見れるから、それは残念なことだったとは思うみたい。
私もとっても残念です。