どうして元気がなくなるのか

ちょくちょく元気がなくなるのですが、

今日はしくしく、めそめそでした。


子供が日本に帰ったからとかそういうのではないのですが、

やっぱ、いやな記憶。悪意。否定。


それにさいなまれ続けている自分がいる。


そして、ちょっともうどうしようもないなと思って、セルフカウンセリング的に書く作業をしてました。


書いて吐き出してるうちに楽になってきた。

そして途中で気がついたのですが、


なぜそのような記憶にさいなまれ続けてるかというと、
それが隠されたものだからだという、そのことに思い当たりました。

嫌なことがあったんですが、

一連の出来事の関係者たちに私は最も傷つく形でサタンだとかいわれ、
それはその人たちの不正や卑怯さ、隠された意図や欲望、偽善のようなものを正当化する手段でもあったと思うんですが、

スピリチュアル界の陰湿ないじめですよね。集団意識による。

ま、自分にはよくあることではあるんで慣れっこなんですけど、この場合は信頼して無防備に心を開いていた人の裏切りを伴っていたから最高にきつかった。

自分の大好きなお母さんもいじめっ子側に加わって私をつぶしにかかってくる感じ?

な、なんで!?おかしくない!?と涙ながらにいうと、お母さんはおののいて、やっぱこの子は平常心もないし、おかしな態度をするからもともと悪だったんだ、うざい!こわい!という認識を深めていじめっ子たちへの傾倒と愛着をますます深めるかんじ。

いじめっこはお母さんにこの子はサタンだから罪悪感なしに切れと子供の前で命じましたとさ。

で、親しみのある私を切った空虚感はいじめっ子の意図を共有するおすすめの、私みたいにおかしな子じゃない別の、褒めちぎってくれていろいろしてくれる素敵な子が埋めたので、手のかかるめんどくさいわたしのことはすぐ不要になった。


ね、きついでしょ?悲しいし。

最初はあまりの冗談みたいなことになんてこった、と、ばかばかしくて笑ったけど、どうも本気らしいと知るにつれて、ばかばかしいことがまともと思われてる世界に心のそこからガックリした。


お母さんもいじめっ子に顕在意識領域と無意識領域などさまざまなところ、あらゆるチャクラを通じて意識を侵食されて、導かれ、彼らの意図と自分の意図を溶け合わせ、私がネガティブな遺棄すべき存在だと積極的に信じていく過程をつぶさに見てしまった。

でももう侵食されきったので切り離せない。

人をそこまでネガティブな存在とみなすことがそもそもちょっとどうなん?おかしくない?
と私なんかは思うんですけど、

ま、スピリチュアル界にはよくあることですよね。

だから私はこの狭い世界が嫌い。


裏切られて心がやぶれた状態の私に、私が悪だから情けをかける必要はないという、その人の属する集団意識からの嘲笑と追い討ちでとどめ。

あ〜、信頼してた人にはそういう集団意識の攻撃から護って欲しかったなー、というか、普通そこまで信頼しあってたら護るでしょ、と思うんですが、裏切りの罪悪感を、集団意識のサポートをもらって正当化して心を楽にするために悪として切り捨てられたのは私のほうでした。

グルのいうことは絶対らしい。
グルの周りの人たちもグルがそういってるんだからどうして迷うんだとか言ってた。

冗談としか思えないんですけど・・・。



罪悪感はそういう風に解消してしまうと、その人の中のよいものを取り戻すのはずいぶんまた(解消したつもりの罪悪感の)痛みを伴うだろうなと思うので、
もう振り返らずにたぶんこのままいくでしょう。

それがその人にも楽だろうから。



実際は集団意識の闇の部分は光に照らされる形の変化(それは闇の部分の消滅を意味する)を望まなかったので、変化をもたらす恐れのある私が全力で攻撃されたんだと思います。

私としては、その集団の光の部分で自分ともつながってると思っていたので驚いた。

これも私のいつもの間抜けなパターンなんですが。




私は何でかその人たちの評判とかを護ろうとしてて、その人たちが傷つかないように考慮してるところがあって、(子供はいつも自分を責めて、親をかばうので。私、正統派のアダルトチャイルドです。苦笑)

ネットで書くなと少し脅されもしたし。

私はそういう、なんというか、そうは見えないかもしれないけど、他人を糾弾するような方向性は実はあまりなくて、
いつもそうなんですけど、私が自分自身どう思い、どう考え、どう感じたかということを自覚すること、自分自身の中心を感じ続けていること、それだけを大切にしてて、

私からの攻撃を想定してそういう風に脅されたことも、そういう世界に取り込まれてそういうのが当たり前の世界に触れてしまってること自体、また怖くって。

私の住む世界にはもともとそういうのないですから。


でも私がなにをどう感じたかを表明するだけでなんでか多くの人には糾弾のプレッシャーがもたらされるみたいで、

不思議ですよねえ。

これはブログに書くなと怖い感じでよく言われる。

すごく怖いみたい。

書かれるのが。


何で?その人たち、何か悪いことしたのかな?

やっぱり魂ではそういう自覚があるんでしょう。

だからわたしが「へ〜んなの!」とか書くだけですごい怖いみたい。



で、話は戻って、その人たちはその人たちの思うところの覚醒の障害となる悪の手先の私は消えたってかんじで余計者の私が死んだその世界で楽しくしてるんですが、

私はそのように踏みにじられて扱われた記憶を誰とも共有せず、一人隠して抱え続けるようにセッティングされてしまってるんですよね。


これはまさにトラウマがトラウマとして機能し続け、心を蝕み続けるために必須なこと。


表現されないものはいつまでも中で生きてるんですよね。


そのことに、先ほど気がついた。

あ、そういう風にとどめられてるな、と。



私の意見や感じたことを表現するのを禁じられてる状態。

なので、いつまでもその痛みを痛みのまま抱えて、受けた場面に貼り付けになってるような状態。


このしくみ、うまくできてるなと感心しました。


表現されてしまえばそれをつかむことになるから、その次の段階の手放して行かせることが可能になるんですよね。


それができないような、表現せず潜在意識化において抱え続けて自分自身を傷つけ続けることを強いられるようなセッティングになってる。


なのでいつまでも生傷状態。



これらをすべてを気持ちよく手放すにはあとなにが必要なのかな?



確かに足元のことは大切だけど、足元から広げてもうちょっと広く見てもいいよなと思います。

少なくとも誰かを意図的に傷つけないように。

力になれるように。


そういう視野の広さの不足が今の日本の危機的状況なんだけど、みんな今を楽しんでいて自然の痛みは直接自分のこととして感じるのをやめてしまった。


サイババ関係者の人もそのように私や子供を傷つけるような状況、(とくに近しい人に私を裏切らせることでダメージを与える役割を知らず知らずのうちに担わされそうになってるケースに)陥りそうになる場合がちょくちょくあるのですが。


サティアサイババ関係者の場合、それはババがそれをさせられそうになってるその人をそこから救い出して護るということでもあると思うのですが、

私の存在を認識できるのでそれがストッパーになって、ちょっとそれ(結果的に私への攻撃になる可能性のあること)はしたくない、という理性が入り、自分の意図や欲求より全体の調和を優先させ、結果、悪意をかぶったり不名誉になるかもしれない役割から逃れる場合が多いです。

私の気持ちへの想像力を持ち合わせてるんですね。


サティアサイババ関係者でない場合は私への想像力が薄くなるので、ストッパーにならず、自分の思うところの濃縮した意識のままで突っ走る場合が多く思います。

もしくはグルが悪である私への対策として、意図して追随者にそれをさせます。

なんかもう、最悪だし、がっくしです。




これらも結局は男性の矮小タイプの自意識と、それをそのレベルでとどめ、増長させて強化することに全力をかける、矮小タイプの女性の自意識のなせる業だと思います。

あ〜、本当に交流するといい広々したステージはそこじゃないのにな〜、
と思うんだけど、

いったんそこで息苦しくつながると、広々状態の場へのシフトがとっても難しい。



これらの全体から切り離し、信頼や協調関係をばらばらに切り離すタイプの閉じた男女関係はあえてそこにはまる必要があるのかといえば私はない。

でも世界はそのようなタイプの一見純粋エネルギーであるかのように見えるタントラに価値があるかのように思わされてます。


うーん、それはそれを超えていくためのものとしては表現形態としてあってもいいと思うけど、いまの時代にそれにはまるととても逃れるのは大変に思います。

そんなもの、タントラではなくて単なるトラップでしょう、という。

それは強さと魅力はあるけど必ず悲劇を内包しているように思う。
内包していなければその外側において悲しみが生み出される。


私としては、そうじゃないところのタントラすら超えたひろびろしたところですべてと出会いたい。

それが私の本来の安らぎだと思ってます。


それは今のこの時代においては家族と密接な関係があるように思います。


離れていても心が通い合っていればそれで充分だと思うけど、さまざまな、興奮をもたらす魅力的なトラップにあれよあれよというまにからめとられてつながりが失われて消えていく。

戻るときは一瞬なんですけどねぇ。


まあとにかく、自分の利益と安寧のために誰かを消したらいかんと思うわ。


それって卑怯やし、ちっちゃいですよ。


それに人として悲しいことでもあるきがする。


宇宙人はやりたいようにやるし人のことは気にしないという話もあって、

まあ私もそういうとこありますけど、実はすごい隅々まで考えてる。

その上で、表面的には傍若無人にしたりしてる。


でもホントに気にしないようなやりたい放題の元だんなのようなケースもあって、

それはそれでいいのかなと私も思うんですが、


単に人のことを気にしないで邪魔者を消す感じにしてるとやっぱ全体の調和、それって中途半端な集団意識じゃなくて宇宙原理レベルの、それに寄り添っていくしかしょうがないときがいつの日か恩寵として訪れるように思います。


私がひどい目にあった〜と、いろんな人に言っても、私の知り合いなんかはみんないい意味で個人主義だしお人よしだから、

誰もあんまり私の味方とかはしてくれません。笑

ただ、よりよい可能性を中立な立場で見れるから、それは残念なことだったとは思うみたい。


私もとっても残念です。



アガスティアの葉の翻訳状況

アガスティアの葉の第1回目の募集で翻訳を頼まれた方でまだ手元に届いてない方が複数いらっしゃいますが、

葉っぱ自体はもう全員の分が見つかっています。

翻訳がまだ時間がかかっているので、済みませんがもうしばらくお待ちください。

私の情報処理能力が働く方向性

一生懸命たまったメールの整理をしていました。

なんか確実に情報量は増えてるけど、情報処理能力はあんまり増えてない。


ん〜、まあいいか。



せめて、注文メールくらいは処理出来るようにします。って、どんだけ能力低いんだという話ですが。



たぶん私、ブログの記事書いたりとかそういう方面に集中したほうがいいとは思うんですけども。



ちょっと当分は試行錯誤が続きそう。





アシュラムの宿泊棟の廊下で。



子供が来るとやはりおかん&おばはんモードが発動してしまう。



外遊び。自由に歩く犬。



ん〜、まあ、子供の透明度は日本で暮らして失われましたよね。
さすがに1週間では戻らなかったけど、だいぶましにはなったと思う。



これは今日。ウエスタンキャンティーンの前。生え際、もじゃ毛(いも毛)



子供の夏休みの宿題で、外で絵を描いたので私も一緒に牛を描いてみた。
3人のちびっこたちに3方向から全力で話しかけられ、写真を撮られまくり続けられても適当に話し続けながら描き上げたわたしはえらい。

牛のお尻みたいなのは、お尻じゃなくてこぶ。




この絵、もし欲しい人がいたら2万5千円でお譲りします。笑

一応日本で暮らしてた10年ほど前は職業、美術家とか画家を名乗ってた。

新聞にも画家としてメジャー紙3社にカラー写真つきで記事載りましたよ。あと、タウン情報誌の取材も自宅で受けた。

それらの記事全部捨てたけど。

そしてこれはそのころの画風の絵ではないですけど。

絵は、うまいかどうかでいえば、そんなにはうまくはないんです。笑

でも絵を描くのは面白いし好き。

絵は、1枚10万円で売れたのが最高額かな。

画家として活動したのはせいぜい2年くらい。
ヴェーダチャンティングに出会ってしまったので、美術作品作りはやめてヴェーダに専念した。

当時絵を買ってくれた人がこのブログを見てるかどうかはわからないけどありがとうございますですよね。

いろんな人に買ってもらったことでただの画家からプロの画家にしてもらえた。

私もそんな風に人を元気付けたり持ち上げ足り、その人に価値を与えるようなお金の使い方をしたいものです。

今のこのショップでも、そういうつもりはないかもしれないけど、皆さんに支えられてはぐくんでもらってるに他ならない状況。

泥棒や強盗の姿をしたルッドラ神に帰依します。でも、泥棒や強盗を礼拝するわけではない。

子供は無事に大阪に到着した模様です。

直接お世話になった方、間接的に見守ってくださったかたがたなど皆さんありがとうございました。



(つづき)

今回、子供がインドに来てる間に、アシュラムでルッドラムの展示があったのですが、

そこに、泥棒や強盗の姿をした神に礼拝しますというような内容のルッドラムの部分に関する展示があって、

わたしは子供に説明するために適当にしゃべってたのですが、

すべての中に神があってすべてが神であるからといって、強盗や泥棒に対して従ったら殺されたりするから、そういうことをする必要はなくて、

という風に子供に説明してました。

すべてに浸透している神と、それがいろんな姿かたちとなっているその役割とは別なので、すべてが神であると知りながらもそこに表現されている役割に対しては、それぞれ適切な対応をする必要があるということを私は子供に説明していたのですが、

自分で言いながら、そうだなーと思っていました。笑


そこって私がとても苦手とするところでもあって。


基本、みんなが神に直結してるその道筋のようなもの、神とそれぞれの存在に共通する資質、一致点というのは私はわりと容易に見出せるのですが、

私自身がとても純粋で守られていたときにはそのように他人を扱ったりしてもせいぜい奇妙がられるくらいで問題なかったのですが、

今の私は昔のような守られ方はしていないので、

他人の中に神を見てそのように扱ったとき、その相手の自我が充分純化されきっていない場合だとものすごい攻撃やコントロールが私にもたらされるパターンが多いです。

だから、昔だと、
どの人も素晴らしい光に満ちた存在だと感じてすべての人に対して従順で溶け込むような私だったのですが、

今はそれをすると大変なめに。


なので、相手の中に神と同質の光を見るのはいいけれど、それと同時にどういう分離がそこで役柄として表現されているのかもしっかり認識して、その分離に対して自分を明け渡してしまわないようにしなくてはいけないっぽいです。


そのようなバランスのうまくどっちも機能するポイントにいつもいないと、どっちかだとちょっとまずいみたい。


おしまいっ。


(午後のサマディーダルシャンとか行ったのでモードが変わって文章が続かなくなった)



そうそう、私が抱えていたネガティブな感情が出るに任せるように自由にさせてたらほとんどそのエネルギーが消費されたのか何なのかわからないけど、私のとこからはほとんどなくなった感じが今はしてます。


かなり根が深くて何度も何度も訪れるこの手の感情だけど、

そのつどいろいろやってみようと思います。

すべてが一体である状態と、それぞれのバラエティある表現形態への適切で実際的な働きかけって?

(つづき)

そうして、私の中に出てきた怒りや悲しみ、憎しみのような強い感情、これはそのまま、それを引き起こしたところに返していいんじゃないかという気がしてきて、

私はそれを自分でそれ以上外に出さずにとどめようと苦心してたわけなんですけど、

それはあるいみ、そのような感情と自分をがっちり組み合わせて同一視してることなんじゃないかという気もしてきて、

自分がそれらではないならば、そのときそれらの湧きあがってきた感情は自然にそのつくり手のところに戻ろうとする強い方向性があるわけで、


じゃあ、行かせるか、

という心境になってきて、


もう自分の元に留めて出さないようにするんじゃなくて、それらが働くに任せてみた。



それらの子供たちのいる世界のような幸福と調和の世界を破壊する意識の使い手そのものを、それらのネガティブな感情たちは破壊し殺したいと欲し、

それってわたしは一応カルマがどーのとかいう仕事をしてるわけなんで、

そういうのを出しちゃいけないと思うのは普通で、


というのは自分に戻ってくるから。


でももともと実は戻ってくる場所に自分がいるときには出したものが戻ってきて影響されるけど、
つまりそういうネガティブなものと自分とが不可分の状態であるときにその状態でそのようなネガティブな感情を発すれば。


でも自分の自意識がそのネガティブな感情が自分の意識の中にあるその場所にいない感じであれば、

ネガティブな感情が自由にその目標へ働きに行くのを逆にもう自分の自意識ではとめられない感じがした。


で、それはそれで、いっか。


というかんじになりました。


むしろそれが自由にその性質に沿って働くのを私は私の意志で停めて、邪魔していてそれこそが自意識だったのかもしれないなという気もしないでもない。



というわけで、それらネガティブな感情が激しく働くのをここ数日許可して見ていた。


ホ・オポノポノでもやはり例えば自分が攻撃されたときなど、そのことをすぐにクリーニングして、

それがその攻撃した人の身に記憶としてネガティブな形で現象化しないうちに自分の責任で消してしまうようで、

まさに仏陀の境地にも匹敵するようなシンプルな素晴らしさだと思うんですが、


(仏陀の場合は受け取らずにそれが発したものに戻るに任せるんでしたっけ。)



私もそのようでありたい気持ちはあって、

何で私が、と思いつつも、たくさんのお金とエネルギーとさまざまな犠牲を払ってその攻撃による影響を中和させようと試み続けてきた。


しかしちょっと限界かな、と。


だって幸せな状態への破壊行為となる意識の使い方、あり方、原理に従うということによる私自身へ現れた破壊的な部分を自分が何とかして、
そのもとのところへの影響を戻るのを私が中和したとしても、

元のところそのものはますますこれでいいのだという感じで現状維持もしくはさらにその破壊原理を強化する方向に。


そこで脳裏に浮かんだのが、

で、すべてが一体である状態と、それぞれのバラエティある表現形態への適切で実際的な働きかけが同時に出来るものなのだろうか?ということ。


(つづく)

消えた記事

ここ数日の間に、まあ、子供は来てたわけなのですが、

実はものすごい憎しみや悲しみ、怒りがまたでてきていました。


それって、子供がインドに来たことで、ある意味リカバリー状態に近くなって、

それでまた自分がそれらの感情を感じることが出来る余裕が与えられたということなんだろうと思うんですが、


ブログ記事に書いては、公開しようかどうしようか迷ってるうちに消えてしまうということが2回あって、


それでもまたこうして書いてるんですが。笑

それって、ホ・オポノポノでも、とりあえず出てきたものをクリーニングして消して、それでも消えないことだったら古い記憶からではなくインスピレーション由来のものだとみなして行動に移したりしてゆくというプロセスに近いものがあるかもしれませんね。


不思議ですよね。


子供が来て数日はプッタにいるほかの子供たちも一緒に遊んだりして加わるのでそっちにエネルギーを割くと忙しくてPCがほとんどできなかったのですが、

小さな悟りじゃないけど、

自分の自意識がそれで子供たちの幸福なエネルギーに溶けて癒された感じがありました。


で、あ、このまま生きていけるのかもと思ったのですが、


そのあと猛烈なゆり戻しがきて、


そのような幸福な状態を引き裂く意識の使いかたに加担するものたちに対する強烈な憎しみと怒りと悲しみがきた。



これまでは私はものすごくそういうものを自分で何とかしようとしてて、

まあ実際すごくお金もかけたし、

自分自身の中で処理することを大前提としていたのですが、


これは、自分にとどめておくこともないんじゃないかという気もしました。


それが自分のものではないのなら。


来たところに返すというか。


つづく。

子供を見送り中。バンガロール空港からです。


いま知人と子供を見送り中。バンガロール空港からです。

?
キャセパシフィックはずいぶん乗継がいいみたいです。


二人がエスカレーターをあがっていったら私もプッタに戻ろうと思ったけど、2人がエスカレーターの前で飲み物飲んで休憩してるので私もお茶を飲んだ。二人が本を読み出したので私もパソコンをひらいた。


あ、そろそろ行くのかな?


行くみたい。私もタクシーにもどろうっと。


今日のルッドラプログラム

今朝は久しぶりにナガラサンキルタンに参加して気持ちがよかった。

そのあと、毎日のシヴァリンガムプージャ(バジャンホールの中で、アティルッドラのときのシヴァリンガムに)

に、誰でも参加出来ると聞いたので、知らなかった〜、と思いつついってみた。

しかし今日はオリッサのグループ優先だったのでバジャンホールの中には入れなかったけど、サイクルワントホールとバジャンホールの間に座ってプージャのチャンティングを聞いていた。

アシュラムの部屋に戻って子供を起こしてサウスで朝食をたべて、8時からのヴェーダチャンティングに。

今日はブルグワリーをしてました。

その後またバジャンホール(神殿)の中におまいりすると気に入り口に座ってるおばあさんが、たぶん朝のプージャのプラサードとして葉っぱを配ってたのでもらって食べました。

そのあと、オリッサの女性たちがシェッドの方で121人でルッドラムを唱えるプログラムをしてました。

たぶん、500人くらい(もっとといってたかも1000人くらい?)唱えられる人がいるんだけど、その中からえりすぐりの選抜チームだったみたいで、平均年齢も若くて元気いっぱいで調子よくいい感じで唱えていました。

女性だけのルッドラムプログラム、素晴らしい出来でした。


バンガロールで合流

バンガロールで子供と、連れてきてくれた人と合流しました〜。


バンガロールのホテルを予約しました。

今、バンガロール市内のホテルに直接電話して予約しました。

ここ。

カーサ デ ベンガルール アパートメント ホテル

最初アゴダで見て、4600円くらいかー、てことは、2800ルピーくらい、

子供を連れてきてくれる人が確か3000〜4000ルピーくらいのとこがいいって言ってたような気がするので、

(今思えば日本円でだったかも(^^;))

なんか素敵な感じのホテルだし、朝食付きでチェックアウトも12時でゆっくりできるし、翌日の大切な行動にも適切な場所だしいいんじゃないかなと思った。

で、ホテルの名前で直接ホテルのサイト検索してそこの電話番号に電話して予約した。


ホテルのサイトだと6000ルピーとなってて2倍になってたんだけど、

アゴダだったら2800ルピーくらいだったからこの値段にしてくれるんだったら泊まるというと、

じゃあスペシャルで3500ルピーにしますといわれ、

それじゃあまだ高いので、もっと安くしてくださいといったけど

「それは不可能です」といわれ、

よく見たらアゴダのは合計19パーセントの税金が含まれてなかったので、

3500は税込みだというので、

あ、じゃあこのくらいなのか。

と思って、それで予約しました。


しかし、出発2時間前に予約、いつものぎりぎりパターン。

いつもどおり、まだ荷造りしてない。

ま、1泊だけだから何もいらないけど。


いつかこのパターン変わるのかな?

と思うけど変わらないだろうな。笑 

特に不都合無いので。


感覚として、行き当たりばったりが一番気持ちがよくて。

でも、ほんとに行き当たりばったりでホテル探すと大変なので、(ネット予約とかまだできない時代はそうしていたけど)

結果、出る直前に決めて、そこに向かうというパターンが多い。




飛行機が着くのが夜中の2時前くらいなので、空港にタクシーもって行って、

バンガロール市内のこのホテルで明日の朝はゆっくりして、それから豪華ホテルのリーラパレスに入ってるらしいアノーキーという手ごろな値段かつ素敵な服屋さんで買い物して。(←翌日の大切な行動ってこれ。笑)

ゆっくり昼食食べて午後2時か3時にバンガロールを出て、ストが終わったころの夕方くらいにプッタパルティにつくようにします。

途中で在外国人に人気のファブインディアも寄ると思います。

私もよくここでパンジャビとかサリーとか買って、日本でもどこででも着てる


たぶん、プッタに行く途中にあるイェラハンカ?のあたりのエスティマモールに寄ったらいいかなと思っている。
そこのファブインディアはいつもお客さんが少なくて、店はわりと広いので疲れない。

ホワイトフィールド(カディゴディ)のファブインディアは一軒家になっててかなりいい感じなんですが、

バンガロールからプッタに向かうにはたぶん、ちょっと方角が違ってて、プッタに向かうついで、という感じにはならなさそうなので。


これらのバンガロールでの買い物は子供を連れてきてくれる人の希望でスケジュールに入りました。
(と、他人を思いっきり隠れ蓑にする。)

アノーキーはバンガロールに3店舗だけど、ファブインディアはバンガロールに山ほど支店があると思います。(インド中に支店が山ほどある。)


空港からプッタは今2〜3時間くらいで着いちゃうので(道路がすごく快適。)
空港からプッタにまっすぐ行くのも楽ですよ。

バンガロールシティは、バンガロール空港からプッタとは逆方向に40〜60分行ったとこだから。

だからバンガロールシティからプッタヘは3時間半くらいかかります。


アシュラムのアコモデーションは夜中とか早朝とかはできないので、そのときにプッタに到着するなら、アシュラムの周りのきれいなホテルに部屋とって翌日の昼まで休めばいいし。

アシュラムの近くの、サイタワーホテルの部屋の値段聞いたらシングルエアコンなしで朝食付きで500からありました。

今はけっこうあいてるみたい。

クリスマスシーズンとかはいっぱいでしょうけど。


サイタワーって1600とか1800ルピーくらいのけっこう高いイメージあったんだけど、そんな安い部屋もあったんだなと驚きました。(まさか税抜き?)

500ルピーの部屋も、ちゃんとギザ(湯沸かし器)もついててお湯もつかえるし、今プッタは水不足がひどいけど、サイタワーのフロントの人はサイタワーは水の問題は無いといっていた。


アシュラムの中も時々は水が出なくなることもあるかもしれないけど、基本大丈夫。

少なくとも外よりかは大丈夫と思います。



ホテルさがすならわたしはアゴダとかトリップアドバイザーのサイトをよく参考にしてます。

10〜20年前とかに比べて、インドの個人旅行がこんなにスムーズで快適なものになるとは。


ホント、便利な世の中になったもんだ。



たすかるわ〜。




ちなみにぷったからタクシーに乗っていって、空港で2人を拾ってホテルに行って、翌日何箇所か行ってからプッタに戻る行程でタクシー代は4000ルピー。

アハメッドで頼みました。

別のとこでは5600といわれ、3700くらいだと思うけど、というと、

4800まで下がったけどまだ割高感があったので、


アハメッドにいったら4500を提示され、

まだちょっと高いかもと思ったので(なぜか3700ルピーというイメージがあった)

「他のとこにも聞いてみます」

といって去ろうとしたら4000になった。

なのでそれでOkしました。


今お客さんあんまり多くないんでしょうね。



しかし、ここ数日とくに水が足りなくて水を節約節約だったので、素敵なホテルでゆっくりたっぷりお湯が使えると思ったらうれしい〜。

ふふふ。楽しみ。(あれ?子供は!?笑)



あと30分で出発。アノーキーのサイトの写真見てたら楽しみでドキドキしてきた。

そろそろ荷物つくろっか。