(町へ戻るガンガー沿いの道)
まあ、ふつう、ネットショップに書くようなことではないのですが、
幸い書いても別に平気なネットショップになってるので個人のうだうだを書いてるわけですが。
そんなに気を張って弱みを見せないようにする必要もないし。
人を引っ張っていくようなあれでもないし。
むしろ直接会ったこともないようなお客さんたちが天界からサポートしてくれてるみたいだし。
(どんなショップだ)
(らくがきガネーシャさま、私たちの行く手の障害を取り除いてください。)
昨日シバナンダアシュラムのヨガクラスで最後のほうのリラックスしてるときにも深い悲しみのようなものがどんどん上がってきて、
全然リラックスできなかったという。
いくらでも残ってるもんなんだな〜、とあきれるのですが、
自分の場合はここ1〜2年、人とのかかわり方が難しかったです。
それは具体的な個人個人のかかわりというより、
やっぱり自分のバランスがうまく取れないことで物事が複雑になったんだと思います。
まあ、いってみれば日本のプージャとか世界のプージャとかに関わることでかぶっちゃった状態なのかもしれないですが、
私自身にもがんがんプージャかけてるんですが、
間に合わないくらい強烈にかぶったといえなくもないかなと思います。
(おつかれシヴァ神)
だからたとえば子供なんかも、プッタパルティの場を中心にすえてる私を中心にまとまって上げられてたのが、
わたしがバランスを崩すことで子供の中心もぶれて、結果、プッタパルティの場と共鳴できなくなって今日本にいると思うんですけど、
もちろん世界のみんながプッタパルティにいればいいというわけではなくて、
あくまで縁のある場合、それがよりよい状態をもたらすことがあるということで、
だから子供の場合、すごく残念なんですけど、もう感じ方とかあり方とかそういうのが日本の捉われてきな場の一部として機能させられてる状態なので、
本当のとらわれのない自主独立は神の世界の中で可能だし、
それはマトリックスの中にとらわれてその中の部分として機能させられ、エゴを持つことで簡単に見失われるという。
そしてエゴのほうが自分が独立してパワーを持っているという感覚を得やすいので、そっちのほうがリアリティとして強烈に神の世界の中での自主独立を忘れさせてくれるという。
神の世界の中の自主独立はマトリックスの中のエゴの自主独立に侵されないしすべてが明らかなので双方の感覚をともに感じたうえで、やっぱ神の世界の自主独立だよなということに体感としてなるのだけど、
マトリックスの中で得られている自主独立は神の世界の中では力をそこにとどめる実力を持たないので、
どうするかというと神の世界を感知できないように隠して切り離して、体感としての比較ができないようにしてしまう。
ときにはそれは神の世界の体感を、マトリックスの平安を乱す邪悪なものとして拒絶、断罪させるのは、これまでの歴史で繰り返されてきたことです。
でもそれは全体としてしょうがないことだし、ある意味必然のことで避けられない、究極的には選択の余地のないことだったと思います。
(街角に飛来したコズミックガネーシャとリシケシの犬)
一度そうなるとわたしの子供の場合も、子ども自身ではどうにもできないし、
(ものすごく霊的な子供だったら、はまらないんだけど、私の子供の場合は「そこそこ」なので影響される)
子供の環境自体はその中に入ったものを手放さないように働きかける性質があるので、
私も手が出せない。
子供はでもいずれ完全に個人として独立するものなので、
私もそのつもりでしたけど、
できればもう少し充分よいものを確立してから独立してくれたらわたしも気楽だし頼もしく思えたんだけど、
どうしても「巻き込まれて剥がれた」感があるので、
残念な気持ちがぬぐえなくて。
でも一般的な感覚や、母の感覚からしたら子供が日本の中で自分の居場所を確立してぐんぐん伸びていると思われるようで、
でも実はそれはプッタパルティで鍛えられて統合されて蓄えられた貯金を日本の生活にまきこませることでどんどん使ってる状態なんじゃないかと思うんですけど。。。
(ガンガー沿いの遊歩道に出てる 激安2ルピー(3円)均一の屋台。)
だから母もやりやすいところがあるし今は夢中になって、大変ながら楽しいこともあると思うけど、貯金が尽きたときはちょっとしんどいかも?
神や霊との交感をしつづけるという貯金はし続けたほうがいいような気がする。とくに私の子供の場合は。意識の枠を常に柔軟にしておいたほうがいいと思う。
たぶん本質的な状態を見る人からしたらその日本で確立されてきてるとされる自分というのは全体に対してブロックになるエゴを確立していっているので、意識はむしろ固く小さくちぢこまってきていると感じられるんじゃないかと思うんですけど、
まあどこかの時点でそういう状態を通ることになっていたんだとは思うけど。
うまく通り抜けられるようにサポートがたくさんはいりますように。
(美しきガンガーの風景と美しきわたし(撤回なし))
で、そういうのをいつも思っていたら私も同じものを受け取りつづけることになるので、バランスを取り戻すためには
自分のためには完全に忘れるほうがいいんですけど、
忘れてしまっていいのだろうか???
うーん、そのほうがいいのかもしれないな。
(リシケシのガンガーの冷たい水で沐浴。かなり冷たい。)
もちろん根本的に忘れはしないんだけど、
いったんブロックができてしまったら、彼の中でプッタパルティ的なものを求める促しが内側から起こらない限りはもうどうしようもないから。
子供だけじゃなくて何人もがそうやって心を離して離れていきましたけど、
行った先で楽しんでいる限りは私からの働きかけはすべて嫌悪や反発をもたらして逆効果なので、
それらの人たちの中でプッタパルティ的なもの、
それは私とかかわりのあった人にとっては開かれた覚醒の光そのものだと思うのですが、
そこへ回帰する(マトリックスからは離脱する)ことが彼らの内がわから起これるように祈ることしかできることはないのかもしれないと思います。
それこそ、自分の中の光とそれぞれの中の光がひとつであることを認識して。
(水遊びの男性たち)
なにもわたしはプッタパルティ至上主義や権威主義というわけではないのですが、
ある種の人にとってはプッタパルティの場に存在することが完全性をもたらす、
プッタパルティが人生の中でそういう設定の場になってると思うので。
(ロールプレイングゲームの必ず行かないとそこから先に進めずどうどうめぐりをしてしまう設定になってる避けられない通過ポイントのように。先に行かなくてもゲームはそれまでの要素を使ってずっと続けられるんだけど。)
だからプッタパルティで得られる変容を充分反応し尽くしたら変容の結果とともにまた他のいろいろな場所に送られることにもなるだろうし、
人によったらずっととどまる人もいるだろうし、
それはわからないのですが、
いるときはその場所自体は別に特にたいしたことないと思うかもしれないし。
でもプッタパルティが多くの人にとって具体的な扉のひとつとして設定されてるとは思います。
私としては、そういう次への扉の設定の場をきちんと通過して、充分変容を定着させて活用し尽くしてほしいというのが望みなわけで。
でもどれだけ受け取れるかというのはその人が含んでる縁と意思の質と量に拠るんだと思います。
そしてその縁と意思の質量も常に変化するという。
プッタパルティはいわずと知れたサイババプレイスなので、
サイババ的なものに縁が濃い人が特に引き寄せられて来るだろうし、
つまりサイババの意識の中に生きてる状態がそこではまんま体現される。
これは半端ではないので、どうじにその人はある意味世界に対して瞬間的にしろいったん死ぬようなもので、
意識的無意識的どちらにしろその人は死んでもいい準備をした状態でしか来られないです。。。
来ても、無意識かに潜在してるものがたくさんクリーニングされてでてくるので、平安と混乱や葛藤がどちらも強烈に同席してるような状態になることが多いです。
今はサイババの肉体がないのでそこまで苛烈ではないし、
今サイババの肉体がない状態のプッタパルティに来る人はそんなに苛烈な浄化をする必要がない、すでにかなりクリーニング済みの人が来るのかもしれないです。
(川でみんなで沐浴して、着てるものも脱いでその場で洗濯する女性たち。)
時代というのもあるし。
だからサイババの意識の中に入るという点で言えば、自主独立を重んじる人はあえてプッタパルティに来ない人も多いと思います。
サイババが瞑想の中や意識を通してそのように「来る必要はない」と、指示する場合もあるようです。
そういう場合は来たら逆に不必要な要素を得て混乱したり逆効果なんだろうと思います。
しかしサイババが来るように望んでも来ない場合もよくあって、
たとえばクリシュナムルティのパートナーとして活動しててのちに対立したらしいですが、その人にはサイババは直接手紙を書いて呼んでたらしいけど最後まで来なかったらしいです。
そういう人はすでに自分を確立してて、他のものに心を動かされたり影響されたりしない状態になってて、
サイババのところに行ったからといって何てことないんだと思います。
でも、それとは別に、
単に会う喜びのために会いにいってあげてもよかったんじゃないかなとは思います。
孫がおばあちゃんのとこに行くように。
行ったからといって勉強ができるようになったりするわけではないけれど、
孫は好きなようにしてて手間がかかるんだけど、おばあちゃんは喜ぶ、みたいな。
先祖がたまには思い出して欲しがるように、
めんどくさいし意味ないと思うかもしれないけど、
求めがあるときは、彼らを喜ばせるためだけということなのかもしれないけど、できれば会いにいってあげてほしいなとわたしは勝手ながら思うわけ。
自分には必要ないことでも、相手の喜びであって求めである場合があるので。
完全に自主独立して満足して生きている場合でも、その手の喜びには限りがないと思うので、
この世界に自主独立した個体として生きていることで可能となるその手の喜びがそこここで分かち合える世界が定着するといいなと思います。
(空が天井、大地が床のインテリサドゥー)