2014.11.13 Thursday
ぽにょ&ヨシオさんの記事
自分も慌ただしくてずっと忘れていたんですけど、久しぶりにぽにょ&ヨシオさんのブログに行ったらいい記事でした。
http://blog.goo.ne.jp/saiponics/e/43541d9b4bcc5531f6f71975c395fca6
樹と話すって、みなさんどうですか?
わたし実は子供のころから木登りが特技だったので、というか木の上にいるのが好きだったので、
少なくとも1日1回は木の上に登ってました。
それをしないと気持ち悪いかんじで。
庭に松の木があって、根元に大きな岩があって、岩の上で遊んだり、そしてそこから木に登って、
面白いんですよね。
手と足を枝にかけて身体を持ち上げて上昇させていって、
その松の木のてっぺんはちょうど座るのにいい感じで枝の中央が平たくなっていたので、いつも松の木の上に上半身を出して座って、塀の向こうの通りを見たり、あたりを見てました。
JRの土手の畑の柿の木や、夙川公園の何本かの木にもよく登りました。
その時は特に樹と話すとかそういう意識はなかったんですが、
大学になって寮の部屋で植物をたくさん育てるようになって(6畳の部屋に大小30鉢くらいおいてました)そのころは自分が世話をしてたからというのもあって、植物の言ってることが分かる感じがして普通に耳を傾けて交流してたと思います。
卒業後、八重山の離島で働いてたときには圧倒的な自然に抱かれてその点幸せに暮らしていました。
沖縄の昔からの聖地は自然の中でそれこそ自然に人々が神聖さや精霊を強く感じるところが聖地になっていったと思うので人工物がそこになかったりするのですが、
男は基本的に森の中のそういうとこには入っちゃだめなんですね。
(公共性の強い場所で、普段も入っても問題ないとこもあると思います)
女性は場所によるけど普段でも入って問題ないとこも多いと思います。
(なんらかの条件を満たしてない一般人は決して入ってはいけないとされてるとこもあると思います)
なので森の中のそういうとこに、好きだったんで時々入ってましたけど、畏れ、畏怖の圧倒的な感じと細胞の一つひとつが覚醒する感じはありました。
畏れて圧倒されていたのは分離感覚の幻を現実として受け入れていたいた個人としてのわたしで、穢れのない魂としてのわたしはそういうとき、ただ本来の喜びの状態に覚醒していたんだと思います。
そういう場所の樹というのはとくに生命力や伝達能力が強いと言うか、通じやすい感じに思いました。
全ての内に宿る大いなるひとつの意識、のもう少しだけ表層に、その存在の独自の個性が感じられて、人間と同じようにそれぞれの樹との人間関係のような関係性が自然に自分との間に形成される感じで。
聖地の樹ではなかったのですが、そのような沖縄の美しい森の中でとても好きな個人的に親しみを感じる木が1本あって、その木の根元で毎日昼ご飯のお弁当を食べてそのあとそこで昼寝していました。
いつだったか、その年だったか別の年だったかは忘れましたがあるときその木のところに行ったら木からの何か訴えのようなものを感じて上を見ると、
他の木からの大きな枝がその木の上に乗っかってました。
大きな太い枝だったし自分ではどうしようもなかったのでその時は島を去って、
その後同じ島に働きにいった一番上の弟に状況を言って頼んだら、のこぎりかなんか持って森に入ってその木を見つけて、その木の上に乗っかってた大きな枝を分割してはずしてくれたみたいです。
今思えばよくやってくれたよな。
木も海も森も何でもそこに個性を感じて交流することは誰でも普通に出来ることは当たり前だと思います。
ただやっぱり自分が望んだら、と思います。(主に潜在意識の部分で)
ありとあらゆる情報や個性が至る所にあるから、全部を無差別に受け止めてたらすごい大変だし。
そこには何らかのやっぱり必然性という鍵によって選択的に体験してるのかなと思います。
ありとあらゆるものが個性を持ちうるし、人間でいえば個人だけが個性だけじゃなくて数名集まったときの集合意識をひとつの個性と見なしてそれと交流することも可能だし、
そうなると本当に個人と言うものの幻想性を思います。
ある時には自分と何かが合わさってひとつの何らかの個性=場ともいえる?を作ってたりもするし。
でもやはり色んな場所に意識をおくことはできるけど、
自分自身のニュートラルな中心に意識をおいた時にだけ、全宇宙の全てが統合されるんだなとは思います。その中に全ての存在が安らいで自由に交流できるようになってるんだろうなと思います。
それを邪魔しないように自分は完全に自分であり続けたいと思う今日この頃。
http://blog.goo.ne.jp/saiponics/e/43541d9b4bcc5531f6f71975c395fca6
樹と話すって、みなさんどうですか?
わたし実は子供のころから木登りが特技だったので、というか木の上にいるのが好きだったので、
少なくとも1日1回は木の上に登ってました。
それをしないと気持ち悪いかんじで。
庭に松の木があって、根元に大きな岩があって、岩の上で遊んだり、そしてそこから木に登って、
面白いんですよね。
手と足を枝にかけて身体を持ち上げて上昇させていって、
その松の木のてっぺんはちょうど座るのにいい感じで枝の中央が平たくなっていたので、いつも松の木の上に上半身を出して座って、塀の向こうの通りを見たり、あたりを見てました。
JRの土手の畑の柿の木や、夙川公園の何本かの木にもよく登りました。
その時は特に樹と話すとかそういう意識はなかったんですが、
大学になって寮の部屋で植物をたくさん育てるようになって(6畳の部屋に大小30鉢くらいおいてました)そのころは自分が世話をしてたからというのもあって、植物の言ってることが分かる感じがして普通に耳を傾けて交流してたと思います。
卒業後、八重山の離島で働いてたときには圧倒的な自然に抱かれてその点幸せに暮らしていました。
沖縄の昔からの聖地は自然の中でそれこそ自然に人々が神聖さや精霊を強く感じるところが聖地になっていったと思うので人工物がそこになかったりするのですが、
男は基本的に森の中のそういうとこには入っちゃだめなんですね。
(公共性の強い場所で、普段も入っても問題ないとこもあると思います)
女性は場所によるけど普段でも入って問題ないとこも多いと思います。
(なんらかの条件を満たしてない一般人は決して入ってはいけないとされてるとこもあると思います)
なので森の中のそういうとこに、好きだったんで時々入ってましたけど、畏れ、畏怖の圧倒的な感じと細胞の一つひとつが覚醒する感じはありました。
畏れて圧倒されていたのは分離感覚の幻を現実として受け入れていたいた個人としてのわたしで、穢れのない魂としてのわたしはそういうとき、ただ本来の喜びの状態に覚醒していたんだと思います。
そういう場所の樹というのはとくに生命力や伝達能力が強いと言うか、通じやすい感じに思いました。
全ての内に宿る大いなるひとつの意識、のもう少しだけ表層に、その存在の独自の個性が感じられて、人間と同じようにそれぞれの樹との人間関係のような関係性が自然に自分との間に形成される感じで。
聖地の樹ではなかったのですが、そのような沖縄の美しい森の中でとても好きな個人的に親しみを感じる木が1本あって、その木の根元で毎日昼ご飯のお弁当を食べてそのあとそこで昼寝していました。
いつだったか、その年だったか別の年だったかは忘れましたがあるときその木のところに行ったら木からの何か訴えのようなものを感じて上を見ると、
他の木からの大きな枝がその木の上に乗っかってました。
大きな太い枝だったし自分ではどうしようもなかったのでその時は島を去って、
その後同じ島に働きにいった一番上の弟に状況を言って頼んだら、のこぎりかなんか持って森に入ってその木を見つけて、その木の上に乗っかってた大きな枝を分割してはずしてくれたみたいです。
今思えばよくやってくれたよな。
木も海も森も何でもそこに個性を感じて交流することは誰でも普通に出来ることは当たり前だと思います。
ただやっぱり自分が望んだら、と思います。(主に潜在意識の部分で)
ありとあらゆる情報や個性が至る所にあるから、全部を無差別に受け止めてたらすごい大変だし。
そこには何らかのやっぱり必然性という鍵によって選択的に体験してるのかなと思います。
ありとあらゆるものが個性を持ちうるし、人間でいえば個人だけが個性だけじゃなくて数名集まったときの集合意識をひとつの個性と見なしてそれと交流することも可能だし、
そうなると本当に個人と言うものの幻想性を思います。
ある時には自分と何かが合わさってひとつの何らかの個性=場ともいえる?を作ってたりもするし。
でもやはり色んな場所に意識をおくことはできるけど、
自分自身のニュートラルな中心に意識をおいた時にだけ、全宇宙の全てが統合されるんだなとは思います。その中に全ての存在が安らいで自由に交流できるようになってるんだろうなと思います。
それを邪魔しないように自分は完全に自分であり続けたいと思う今日この頃。