2013.10.26 Saturday
3時間爆睡
子供の音楽会から帰って非常に疲れて3時間爆睡。
寝ながらもいろいろ考えていたらしく、
起き掛けに、その睡眠中にいろいろ考えていたことの端っこを眺めながら起きました。
考えてもしょうがないんですけど、
というか、考えなくてもすむように分業していたんですけど、結婚生活において。
私はそのころは今以上に社会性がゼロだったので、(半年、完全に引きこもって内面浄化に努めてました)
でも生きてるわけだし、
社会の中で悩まされずに自分自身に集中できるように、対、社会、的なことはもとだんなが引き受けていたわけですね。
神経細かい人だったので会計的なこともキチーッと神経質にやる人だったので。
もとだんなはスピリチュアルなことよりももっとたぶん、アーティストへの憧れがあったんじゃないかと思うんですけど、
お父さんが画家を目指して断念した人でもあったし、本人もそっちの道にすすもうかと思ったこともあったそうなので。
それで、絵の活動をしていた私をサポートすることが、抜け出せず、変わり映えしなくなってきてた人生を変容させる面白い素敵なことと思えてたみたいで。
だから結婚条件としてもわたしは家事とか一切せず、勤めにも出ないことを最初に了承してもらっていて。さらにもとだんは「プロデュースしてやるよ」などと言っていたのですが(→マスコミ系にいたことがあるバブルの最後の世代なのでチャラい)
(女の役割分担としてのやらされ感があるといやなのでそういう前提条件にしてましたが、実際は自主的に楽しんでできる心境だと家事もしていた)
そこで私の霊的性質が発動して
まずはもとだんの状態の作り変えが始まったという。
なんかそういう触媒的な性質はどうしてもあるみたいで。
なので、そこでこの場合もとだんの抵抗があればあるほど厳しくなるんですが、
ある程度の抵抗があったので
最高にスムーズなプロセスというわけには行かず、
そこそこ厳しい状況を通らないといけなくなったわけなんですが、
なので私のほうもそこそこその余波をうけ、みたいな。
でも自分のやるべきことはそこでもとだんの世界にあわせることじゃなくて、自分の世界を保ち続けることで、それがプロセスを速やかに進める唯一本質的な助けになると思ってたのでそうしてましたが、
それも数年で抜けるだろうと思ってて、
そのようにもとだんには伝えてあって、その後のことも伝えてあったんですが、
実際に数年でそのもとだん作り変えのプロセスは完了して、予告どおり経済的にもまったく問題ない状態になったんですが、
そのときにその時のゆとりあるよい条件で私と子供に合流してさらにプロセスを進めるよりも、
(もちろんそうだったら私と子供にとっても一番よかったんですが)
楽になって余裕ができると、私と子供から解放されて好き放題楽しむ非常に非建設的なほうに流れて、
しかしそれは私としては非常にがっかりだったんですが、
自分には知らされてもいて、その予定で準備もさせられていたので、
なるほどそういうことか、、、とも思っていて。
インドに移住する前にいったん籍をはずしてもとだんなを解放したのは、
この結婚はカルマ解消目的、という認識が私にはあったので、
とちゅうまではカルマが結婚生活を進めてくれるので、
そのための牽引力というか契約の自覚をもとだんなに促すためみたいな感じで入籍したのですが、(入籍したら自動的に意識が変わるから)
あるポイントからは、そういう、契約に引っ張られて元だんなが変容するという関係性をいったん解消したかったのもあります。
はっきりいって結婚生活は対等ではなかったし、
そもそももとだんなは霊的に引っ張ってくれという発言もあり、
私としても一般の関係性の中で依存したりされるの(グルー弟子的な相互依存)をすごく警戒してたんですが、
この結婚生活で暫定的に双方のカルマ解消のために行うのはありだと思ったのでそういうことも全部伝えてあったんですけど、全然意味つかめてなかったみたいですけど。
だから私は結婚生活においては、導師的な役割を暫定的に期間限定で行うんだなと思ってました。
あと、結婚とかのずっと前から子供数名が生まれたがってる感じがあったので、
検討して、それが関わる人たち全員にもなんと言うか福をもたらすよう機能すると思ったので、
結婚よりも、そういう子供が肉体を持てるようにしようという気持ちはずっと前からありました。
それが私が元ダンとのカルマ的なつながりが終わった後にも元だんの命綱になるだろうとも思ったし。
で、あるポイントを過ぎると元だんなに(わたしにも)ターニングポイントが訪れ、対等な関係性のみが許される時期になったので、
それまでみたいにもとだんの自主独立性をある意味わけわからんかんじで奪って引っ張るよりも、完全に自主的に自分の意思で合流して欲しくて子供と来るのを待ってたんですけど、
プージャしまくりながら。
ちょっとまだ何というかいろいろ経験してみたい感じが強いんだろうなというかんじ。
そういうのが残ってたらどうしてもそういう魅力に抗えないので。
プージャしまくりの効果か、にっちもさっちもいかなくなって、もとだん、いったん覚悟を決めてプッタパルティにきましたけど、
(プッタパルティに来るのは暫定的な「上がり」→自己覚知だと思います→暫定的なのでまた元に戻りますけど、記憶のどこかには刻み込まれるしそれを現実に落とし込んでいくキャパ・受け皿ができる)
結果的には、またはがれていって、(はがれていって、ていう感じ)
一番霊的に?楽なコースには乗らなかった。
でも、抱えるカルマに応じた一番適切なコースだったんだろうと思います。
もともと私は普通の一般的な観念での結婚は無理だと最初から思ってたので、
こんなかんじになってますけど、
もとだんもいろんな意味で普通じゃないのでOKだと思いますけど、
まあ、一般的な結婚観からしたら全然アウトなのはわかってます。
(ちなみに出会いはインドで)
わたしは普通の結婚ははなから無理と思ってたので、
あくまでサイババならサイババの、自分個人を越えた場で行われる開かれた結婚みたいなのがしたかったというのがあります。というか、そういうのしか無理でしょと思ってました。
だから結婚によってみんなが受け入れるような嫁姑問題みたいなのも自分に起こすつもりもなかったし、
自分の自主性や拡大していく感じを手放す気もなく、むしろそういうのを家族単位のグループとして支えあうことで確実なものにしていければと思ってたんですが、
そういうのは嫁姑問題バリバリあったし常に鬱屈してた母には「ええのつかまえたな」「あんたはずるい」と言われましたが、
やっぱ好みと言うか、そもそもスタート地点での意図が違ったんだろうと思います。
母の場合は時代もあると思いますが、
花嫁修業として洋裁や和裁の専門学校に行ったり、料理の専門学校に行ったりして嫁スキルを磨き、そして半お見合いで結婚相手を選び、相手のことをよく知らないままもらわれていって結婚し。
それ以外の余計なこと(なにが人生における女性の成功か)を考える選択肢がないある意味楽な時代だったんだろうと思います。
だからもとだんの存在感があったときはまだ遠慮してたけど、
その男性としての私の守護者としての影響力を感じなくなると、ほれ見たことか、みたいに反撃に出てる感じもしなくもない。
世の中、あんたみたいなのは通用しないんだ、みたいな。
自分の通ってきた人生を否定しないためにはそう思いたいというのはわかる。
でも私と母はよく似てる部分もあって、
母が鬱屈して出せなかった部分を私が代わりに出してる面もあると思うし、
ほんとうは母自身がそうしたかくてもがいてきて、あきらめたことでもあるし、
母に逆らうものがいなくなって思い通りになるようになってきたので現状に満足し、守りに入ることで母に捨て去られた部分でもあると思うんですよね。
だから、残念に思うこともあります。
母が得たものへの守りを固めようと方向転換してしまったことが。
私をここまで連れてきたのは実は母だったのに、なんか引き返されちゃって、置き去りにされちゃったな、みたいな。
実家も、もっと神とかそういうのに対して真摯で開かれたものであってほしかったなと思います。
もともと母がスピ好きで、狂ったようにいろんなことやってたのに、
ぜんぶ価値がないものとして世俗に集中するようになったのは年だからかな。
もともと、いろんなスピに価値を置きすぎてたので、その反動がきたのかもしれないなと思います。
たぶん、暮らしとスピが乖離してたんだと思う。
何も自由がないかんじの家族に振り回されて自分をささげるばかりの日常と、
自由を感じて脚光を浴びれるスピと。
時代もあるんだろうなと思います。
今は世俗において自分の夢に囲まれて、夢を実現したようなものなので、
そこから先にはもうイメージがわかないと言うか。
世界が思うようになったし、これでいいと思って、一方で排他的になる段階なのかなーと思いました。
母に限らず、いろんなグループのグルもそういう段階で留まってるように思います。
ホントはその先があると思う。
寝ながらもいろいろ考えていたらしく、
起き掛けに、その睡眠中にいろいろ考えていたことの端っこを眺めながら起きました。
考えてもしょうがないんですけど、
というか、考えなくてもすむように分業していたんですけど、結婚生活において。
私はそのころは今以上に社会性がゼロだったので、(半年、完全に引きこもって内面浄化に努めてました)
でも生きてるわけだし、
社会の中で悩まされずに自分自身に集中できるように、対、社会、的なことはもとだんなが引き受けていたわけですね。
神経細かい人だったので会計的なこともキチーッと神経質にやる人だったので。
もとだんなはスピリチュアルなことよりももっとたぶん、アーティストへの憧れがあったんじゃないかと思うんですけど、
お父さんが画家を目指して断念した人でもあったし、本人もそっちの道にすすもうかと思ったこともあったそうなので。
それで、絵の活動をしていた私をサポートすることが、抜け出せず、変わり映えしなくなってきてた人生を変容させる面白い素敵なことと思えてたみたいで。
だから結婚条件としてもわたしは家事とか一切せず、勤めにも出ないことを最初に了承してもらっていて。さらにもとだんは「プロデュースしてやるよ」などと言っていたのですが(→マスコミ系にいたことがあるバブルの最後の世代なのでチャラい)
(女の役割分担としてのやらされ感があるといやなのでそういう前提条件にしてましたが、実際は自主的に楽しんでできる心境だと家事もしていた)
そこで私の霊的性質が発動して
まずはもとだんの状態の作り変えが始まったという。
なんかそういう触媒的な性質はどうしてもあるみたいで。
なので、そこでこの場合もとだんの抵抗があればあるほど厳しくなるんですが、
ある程度の抵抗があったので
最高にスムーズなプロセスというわけには行かず、
そこそこ厳しい状況を通らないといけなくなったわけなんですが、
なので私のほうもそこそこその余波をうけ、みたいな。
でも自分のやるべきことはそこでもとだんの世界にあわせることじゃなくて、自分の世界を保ち続けることで、それがプロセスを速やかに進める唯一本質的な助けになると思ってたのでそうしてましたが、
それも数年で抜けるだろうと思ってて、
そのようにもとだんには伝えてあって、その後のことも伝えてあったんですが、
実際に数年でそのもとだん作り変えのプロセスは完了して、予告どおり経済的にもまったく問題ない状態になったんですが、
そのときにその時のゆとりあるよい条件で私と子供に合流してさらにプロセスを進めるよりも、
(もちろんそうだったら私と子供にとっても一番よかったんですが)
楽になって余裕ができると、私と子供から解放されて好き放題楽しむ非常に非建設的なほうに流れて、
しかしそれは私としては非常にがっかりだったんですが、
自分には知らされてもいて、その予定で準備もさせられていたので、
なるほどそういうことか、、、とも思っていて。
インドに移住する前にいったん籍をはずしてもとだんなを解放したのは、
この結婚はカルマ解消目的、という認識が私にはあったので、
とちゅうまではカルマが結婚生活を進めてくれるので、
そのための牽引力というか契約の自覚をもとだんなに促すためみたいな感じで入籍したのですが、(入籍したら自動的に意識が変わるから)
あるポイントからは、そういう、契約に引っ張られて元だんなが変容するという関係性をいったん解消したかったのもあります。
はっきりいって結婚生活は対等ではなかったし、
そもそももとだんなは霊的に引っ張ってくれという発言もあり、
私としても一般の関係性の中で依存したりされるの(グルー弟子的な相互依存)をすごく警戒してたんですが、
この結婚生活で暫定的に双方のカルマ解消のために行うのはありだと思ったのでそういうことも全部伝えてあったんですけど、全然意味つかめてなかったみたいですけど。
だから私は結婚生活においては、導師的な役割を暫定的に期間限定で行うんだなと思ってました。
あと、結婚とかのずっと前から子供数名が生まれたがってる感じがあったので、
検討して、それが関わる人たち全員にもなんと言うか福をもたらすよう機能すると思ったので、
結婚よりも、そういう子供が肉体を持てるようにしようという気持ちはずっと前からありました。
それが私が元ダンとのカルマ的なつながりが終わった後にも元だんの命綱になるだろうとも思ったし。
で、あるポイントを過ぎると元だんなに(わたしにも)ターニングポイントが訪れ、対等な関係性のみが許される時期になったので、
それまでみたいにもとだんの自主独立性をある意味わけわからんかんじで奪って引っ張るよりも、完全に自主的に自分の意思で合流して欲しくて子供と来るのを待ってたんですけど、
プージャしまくりながら。
ちょっとまだ何というかいろいろ経験してみたい感じが強いんだろうなというかんじ。
そういうのが残ってたらどうしてもそういう魅力に抗えないので。
プージャしまくりの効果か、にっちもさっちもいかなくなって、もとだん、いったん覚悟を決めてプッタパルティにきましたけど、
(プッタパルティに来るのは暫定的な「上がり」→自己覚知だと思います→暫定的なのでまた元に戻りますけど、記憶のどこかには刻み込まれるしそれを現実に落とし込んでいくキャパ・受け皿ができる)
結果的には、またはがれていって、(はがれていって、ていう感じ)
一番霊的に?楽なコースには乗らなかった。
でも、抱えるカルマに応じた一番適切なコースだったんだろうと思います。
もともと私は普通の一般的な観念での結婚は無理だと最初から思ってたので、
こんなかんじになってますけど、
もとだんもいろんな意味で普通じゃないのでOKだと思いますけど、
まあ、一般的な結婚観からしたら全然アウトなのはわかってます。
(ちなみに出会いはインドで)
わたしは普通の結婚ははなから無理と思ってたので、
あくまでサイババならサイババの、自分個人を越えた場で行われる開かれた結婚みたいなのがしたかったというのがあります。というか、そういうのしか無理でしょと思ってました。
だから結婚によってみんなが受け入れるような嫁姑問題みたいなのも自分に起こすつもりもなかったし、
自分の自主性や拡大していく感じを手放す気もなく、むしろそういうのを家族単位のグループとして支えあうことで確実なものにしていければと思ってたんですが、
そういうのは嫁姑問題バリバリあったし常に鬱屈してた母には「ええのつかまえたな」「あんたはずるい」と言われましたが、
やっぱ好みと言うか、そもそもスタート地点での意図が違ったんだろうと思います。
母の場合は時代もあると思いますが、
花嫁修業として洋裁や和裁の専門学校に行ったり、料理の専門学校に行ったりして嫁スキルを磨き、そして半お見合いで結婚相手を選び、相手のことをよく知らないままもらわれていって結婚し。
それ以外の余計なこと(なにが人生における女性の成功か)を考える選択肢がないある意味楽な時代だったんだろうと思います。
だからもとだんの存在感があったときはまだ遠慮してたけど、
その男性としての私の守護者としての影響力を感じなくなると、ほれ見たことか、みたいに反撃に出てる感じもしなくもない。
世の中、あんたみたいなのは通用しないんだ、みたいな。
自分の通ってきた人生を否定しないためにはそう思いたいというのはわかる。
でも私と母はよく似てる部分もあって、
母が鬱屈して出せなかった部分を私が代わりに出してる面もあると思うし、
ほんとうは母自身がそうしたかくてもがいてきて、あきらめたことでもあるし、
母に逆らうものがいなくなって思い通りになるようになってきたので現状に満足し、守りに入ることで母に捨て去られた部分でもあると思うんですよね。
だから、残念に思うこともあります。
母が得たものへの守りを固めようと方向転換してしまったことが。
私をここまで連れてきたのは実は母だったのに、なんか引き返されちゃって、置き去りにされちゃったな、みたいな。
実家も、もっと神とかそういうのに対して真摯で開かれたものであってほしかったなと思います。
もともと母がスピ好きで、狂ったようにいろんなことやってたのに、
ぜんぶ価値がないものとして世俗に集中するようになったのは年だからかな。
もともと、いろんなスピに価値を置きすぎてたので、その反動がきたのかもしれないなと思います。
たぶん、暮らしとスピが乖離してたんだと思う。
何も自由がないかんじの家族に振り回されて自分をささげるばかりの日常と、
自由を感じて脚光を浴びれるスピと。
時代もあるんだろうなと思います。
今は世俗において自分の夢に囲まれて、夢を実現したようなものなので、
そこから先にはもうイメージがわかないと言うか。
世界が思うようになったし、これでいいと思って、一方で排他的になる段階なのかなーと思いました。
母に限らず、いろんなグループのグルもそういう段階で留まってるように思います。
ホントはその先があると思う。