今朝知り合いの方から、サイババの夢を見たというメッセージをいただいて、
私も改めてサイババのダルシャンについて考えたりもして、
自分が今日本でかなり良い感じでやってるとはいえ、インドにいる時に比べるとナチュラルにすごく疲れてることも実感しました
インドのプッタパルティにいると、街全体の場の力があるから、常に頭がパカっと開いた状態で、自分で個人的に調整する必要がなくて楽なんです。
日本だと久高島の場は共通するものがあって楽だったけど、
いまいる八ヶ岳では私個人にまつわる要素の重みを上げきれていないからか、そこまでのパッカリ全開感は得られていません。暮らしの要素が浄化(クリ−ニング?)しきれていない。自分が感じられている純度、これは自分のアンテナの問題だと思いますが、それが低いというか。
私はサイババ自体には実はそんなに興味がないというか、べ−スとなり過ぎているのかもしれないですが、私にとってサイババはあえて言うほどでもない、無意識領域に近い扱いかもです。
あるあるかと思うんですが、サイババ関連の場所にいったりしても、そこで会う人とかの方が面白いと感じる方で。場としてのサイババには当たり前過ぎて意識が向きにくいことも。
でも今朝のサイババ関連のメッセージを読んだりして、
サイババダルシャンでド−ピングできていたあのぱっくり開いた感じっていうのはもっと積極的にこの次元に出没させて、意図して現していっても良いものなのかもという気もしました。
調和優先で(これでも)、ついつい自分を純度を下げたり抑圧しがちだけど(て書くのも傲慢な話ではあるんだけど)
もっとキレてても良いんだろうな。
1日の始まりや何かの集まりの最初に瞑想して、そこで行われたチュ−ニングに場を支えさせるように、私のチュ−ニングをもっと周囲との調和を考えないところにキ−プしておいても良いのかもしれないなと思いました。
そしたら周りがこちらのチュ−ニングに調和する形の調和も起こってくるだろうから。
私の本来のチュ−ニングっていうのは今現在無意識レベルに沈んでる、パカっと開いたサイババのそれなんだろうと思います。