2022.06.22 Wednesday
今朝起きた時に来てた考察。元旦那1について。
(今朝起きた時に来てた考察)
元旦那1にとって、私が分かりやすくアーティスト活動をする人であることがとても大事だった。
彼のお父さんは画家を目指して挫折した人だったし、彼もそういう道に憧れていたけどなりきれずに、せめてクリエイティブな仕事に、と、映像関係に就職していた。(結婚した時はそれもやめてすでにディーラーだったが)
だから喜んで私の美術作家活動のサポートをしてくれた。個展のDMを作ってくれたり、作品の販売サイトを作ってくれたり。
当然のように経済的にも支えてくれた。
彼にとってアートはもっとも「掻き立ててくれる」要素だったのだ。
当時の私は分かりやすく美術作家活動をしていた。
小さな絵や大きな絵を描き、立体作品を作り、月1ぺースで個展やグループ展をし。
いつも運だけは妙に強く、易々と一定の成果を上げるわたしは初個展の小さな成功を皮切りに、すでにそこでもそこそこ結果が出ていた。
でも私が見ていたものは日本のみならず世界の美術シーンにおいて一つの流れ、ひとつの時代を作るトップランナーとして、キーパーソンとして、認識される作家だった。
そして私はその流れに乗っていると感じていた。時代が私を底上げすると感じていた。
美術シーンに次の一時代を作れる気がしていた。
だから私は大きな美術館で展示されるビジョンに従ってスケールの大きな絵ばかり描いていた。
行ったことないけど、まずは目指すはニューヨーク近代美術館での個展、そして世界各国の美術館での巡回展。
そのビジョンに従って2mほどの大きさの絵数十枚を含む108枚の絵のシリーズを実家で描きあげて完結させた。
兵庫の山奥にある実家にはそのときぶち抜きの広い部屋があって、制作と保存のために3部屋使わせてもらっていた。
大きな絵を動かすのは物理的にも大変で、個展の搬入はガテン系の弟1も元旦那1も全面的に力を貸してくれた。(弟は1〜4いる)
(今思えば、よくやってくれたよな!?)
その数年前、わたしは数年間かけて意識の旅をしていた。
突然の覚醒体験、その後のいわゆる悟後の修行としての凄まじい霊体験、目まぐるしく変容するアイデンティティ、自らを救う祈りと集中、そして見出され表出される真我。
たまたま私は美術の専門教育を受けていたから、すでに訓練され、今更新しく努力せず自然にできるツール としての「絵を描くこと」があった。
絵を描き制作することをわたしのガチ意識の旅の伴走者として行った。
私が大学で絵を描いている時、情緒や葛藤、そういった内面の風景は絵を描くモチベーションや理由となり、中核であった。
(続く
(続き
しかし学生時代に起こった覚醒体験は情緒や葛藤へのフォーカスをさせない方に、そこに耽溺しない方向に私を導いた。
ビジュアル的な美しさ、デザイン性の面白さ、ささやかなところに感じる情緒を重んじるいかにも日本画に向いた私の画風は以降変化したが、それはそれまでの専門分野である日本画の持つ空気感、情緒、制作における綿密な計画性への直接的な否定の上にも成り立っていたかもしれない。
日本画とは外側の自然を謙虚に観察し謙虚に表現する絵でもあると思うけれど、私は自分という自然しか見ることができなくなっていた。
その時のそれは、私の外側の世界の全てを否定することでもあった。
外の世界のマトリックスは破壊され、否定されるためにあった。
私の興味は日本画から現代美術に移った。
現代美術はすでにそのようなことが行われている世界だった。
ものすごく面白くて、
一線で活躍している現代美術の先生の授業を取りたい思いも強く、卒業を遅らせて大学に残り、興味のある現代美術の先生の授業を受けた。
(池水慶一先生。プレイ、ハプニング、アートワークス。ご存命であれば85歳)
そこでは伝統的な日本画の世界では感じたことのない自由さと興奮、そして意識の覚醒と行動の一致を感じた。
世界の現代美術の作家の作品はさらにスケールが大きく、自然や風景にも入ってゆき、作品はほとんど大自然の様相だった。
既存の枠を壊し、概念を塗り替え、行き着く先は大自然、大宇宙でそこに美術の概念を引っ掛けて作品として構築していた。
大学で現代美術の授業を受け、課題を製作し、提出していくうちに、
私がこれらの作品を通して表現し、提示したいもの、伝えたいものは、すべての枠や形を超えた根源のものだと気がついた。
美術作品という形も私には枠組みであり、縛りであり、宇宙の完全な自由さから自分を防御するものであるように思えた。
鑑賞し、体験する作品として自分なりの枠組みを設定し、コンセプトを決め、モノを作り、提示するのはもうやめよう、それは私の流れを止める、と思った。
現代美術の最後の授業で、私は今後は私の人生そのものを作品として生きる、と発表した。(なんだかかっこいいと自分でも思った)
私はノーガードで生きることにし、
離島に行き、DV彼氏にボコボコにされた。
とりあえずわたしの色々は地に堕ちて、
ああなんか人間として生きてるって感じた自分はどこまでもめでたくて、結局いつもどこか地面から浮いていて、笑えるけど実際の人生も人格もきちんとむちゃくちゃに壊れた。
そんな悟後の修行はつまりは順調で、
枠組みも人格も壊れた私を通して皮肉なことにアートが息を吹き返した。
尽きない創作の湧出に製作の手が追いつかない日々。
とりあえず壊れた社会性を取り戻して生きやすくするために、私は「アーティスト」という社会的にすでに認知された枠組みを使うことにした。
今思えばいつもひねくれたものの考え方、ものの見方をしていた私。
小学生の卒業文集の将来の夢、将来なりたいものを書く時には、私が私以外の何かになるということはそれが何であれ、矮小化するということだと感じ、自分以外の別の何にもなりたくなかった。
今の自分ではない、別の何かになることが今よりも良い夢であるという一般的な共通認識に同意できなかった。
自我肥大の人格異常者?そうかもしれない。
小学生の私は当時考えられた、最も夢のない将来の夢として「私の将来の夢、OL」と書いた。
それは皮肉だった。
付き合ってられないと思っていたからだった。
(今は、OLになることと、OLとして勤めることは決して簡単じゃないとわかってる😂)
同様に、アーティストなんていう、結局社会の枠組みの中で必要とされ尊重され、居場所が確保されている自由人なんていう、自己矛盾した存在形態はバカバカしくてむしろダサいと感じていた。
私は当時、アナーキストでいたかったのだろうか?
アーティスト、というのもそれも格好の悪い権威主義のひとつに過ぎないと感じていたきらいはある。
とにかく私は外側の世界の何も受け入れる気が無かった。
ただ私は客体を排除して、ひたすら自分自身の身をただ主体的に生きる、常に主体でいる、それだけをする、と、あの、池永先生の現代美術の授業の最終日に決めて、それをそのまま生きていた。
私は私人生劇場の出演監督演出で、その観客でもあった。
その全部を同時に主体性を持って味わい楽しんでいた。
それは矛盾するようだけど、全てにおいてこれらは真の意味での自分ではないとも常に感じていた。
だからこそ、別に何してもいいやとも感じていた。どうせ全部芝居だからね、と。
自分が見たい劇、見たい芝居を観るのだ、自分が上映して。
とてつもない傲慢さ、何に対しても一切自己同一化できない性質の自分がそこにあった。
そんな人が社会にいたら周りも扱いに困るし私も軋轢が生まれるとやりにくいので、 そこで私は道具として、私が何の価値も感じていない、「アーティスト」という社会的仮面を身につけようと思った。
(現アーティストの皆さんごめんなさい。これはあくまで私の場合)
そしてそれは割と簡単に実現した。
でも今思うと私はアーティストではなくて、アーティストの仮面を被ったアナーキストだったんですね。アーティストの概念すら否定する。今気がついた。笑
私にとってアーティストというわかりやすい職業仮面は一般社会を欺いて、この傲慢な私が一般社会の中に居場所を確保するのに使い勝手の良いトリックだった。
私はそんなものに本気で自己同一視したときはなかったが、 周りはそのように私を理解し、勝手に「この人はアーティスト」と認識して理解したと感じ、安心してるみたいで都合が良かった。
私は私が私でいることにある種の人たちが不安に感じるように感じていて、それが居心地が悪かったから、勝手に誤解して勝手に安心してくれたら楽だったのだ。
多くの人は未知のものには恐怖を感じ、ラベリングできたらそれがコントロールできていると感じて安心する。
だから、私は私を「アーティスト」とラベリングさせたのだ。
どこか、根本的に不毛だな、無意味だな、と醒めて思いつつ、わかっていながら私は精力的に作品を生み出し続けた。そこに努力はいらなかった。
猛烈な量とスピードで、いくらでも描けた。
別に他にやることもなかったから、
では「アーティスト(仮)」として拡大していこうと思い、
その活動に力を注いだ。
元旦那1は「アーティスト」に夢とロマンと輝き、そして何らかの自由を感じていた。
「アーティスト」は彼と彼のお父さんが成りたくて成れなかったものだった。
私にとって「アーティスト(仮)」とは、本来の自分をスローダウンさせて俗化して一般にわかりやすく見せるための卑俗な仮面(社会通念への一定の免罪符付き)だった。
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