2015.06.23 Tuesday
フィンドホーンから戻ってきました。
素敵なレストランは帰国前に街で泊まったホテルの。しかし味に関しては、ボロでも行きのヒルトンの朝食の方が満足度が高かったです。
スコットランドの非常口表示は日本より常に二割増しで急いでました。(身体の傾け具合が)
空からの写真はフランクフルト空港に着陸する寸前のもの。
フィンドホーンでは途中からかなり飢えてたので、フランクフルト空港では即刻中華レストランに入りました。
たいして美味しいとは言えないベジタブルライスヌードルスープでしたが、ラー油みたいなのと醤油で味を整えて、汁まで完食。
後から来て横に座った知人のやきそばと春巻もつまんで、ようやくお腹と気持ちが落ち着きました。
フィンドホーンは20年間行こうと思い続けた、まさにわたしの41年のこれまでの人生の、特に激動の後半生のスタートからとともにあり、ずっと通奏低音のように心の中にあたため続けていた場所でした。
フィンドホーンについては、20年前にわたしの人生がひっくり返った覚知体験が自分に起こったタイミングで、普通じゃない形で(近くにいた錯乱状態にある人から)もたらされた情報でした。
その後の20年は、とくに最初の6〜7年ほどは自分を分解してその体験を統合する極度の苦しみの中にありました。
なのでそういう意味で、自分にとってとても重要な心の支えになっていた場所で、今回行けて感無量で、同時に軽い脱力感もあるかもしれません。
実際行ってみてどうだったかというと、きれいだったり素敵なとこももちろん色々あったんだけど、
魂における発見や新鮮味がびっくりするほどありませんでした。
なにかもう、わたし、どこに行っても一緒なのかなとつまらない感じも。
人生で、どういうのが自分をアゲる要素なのか途方にくれてます。
サイババ関係の知り合いが以前、サイババは、自分にとってはボブマーレーを超える最強のアゲキャラだと言っていて、その感覚わかる、と思ったものでしたが、
サイババとは今だに脳内会話は続いてるものの、サイババが物理的に地球上から消えちゃって、わたしにとってその分地球が確実につまらなくなってしまった。
今サイババに試しに、人生を楽しく生きるにはどうしたらいいのと聞いてみたら、自分を生きることだという返事だったけど、
それは真実かもしれないけどなんかそれってとても寂しいなあと思うわけです。
世界はサイババやフィンドホーンを含め、自分の反映に過ぎないのかもしれないけど、世界の何かに夢中になったり、何かに参加して我を忘れることにこそ、この夢の二元世界のめくるめく醍醐味とよろこびがあるわけで。
自分を生きることはこの世界におけるある意味最悪で、だれもが避けてることなので。
生きがいがあって自分は自分の人生を生きて満足してると思ってる人でもよくみてみると自分と何かを同一化してて、ちょっとは何かが混じってて自分から巧妙に逃れてる。
20年前のわたしは人生の何もかもが楽しくて完璧で充実してると感じていました。
わたしは世界の全ての要素や存在が大好きでいつも世界に夢中でした。
そのような幸福な夢の世界が覚知体験によって源泉の無に帰し、大きなものから小さなものまで全て固有の重みを失ったことは自分にはトラウマのようなもので。
役者がそれぞれの役を演じるのをやめたのを目の当たりにして、グルになった世界中にどっきりをしかけられていたようなショックともう何も信じられないような気持ち。
それでも騙される(自作自演で自分を欺く)楽しさと、これら外の世界に実在して見えるものが究極的にはなにひとつとして真実ではないという、うっすらした記憶がもたらす哀しみと、おそらく諦める他ない一抹のさびしさ。