2010.10.09 Saturday
グルばなし。
Om Sri Sai Ram
○○さんこんにちは!
そー、グルとかって、自分を変容させるためにはすごくパワフルなんだと思います。
男女関係を考えてみれば分かると思うのですが、
付き合ってるうちに相手の性質を吸収して、にてきたりするじゃないですか?
2人の境界が解けて、ひとつのエネルギーとして混ぜ合わされる時にはそういうことがすごく効率よく起こるという。
グルと弟子の関係もそれと同じくらい親密なものなので、
よいグルにつながれば、もう、自動的にどんどん変容していってしまうんですよね、きっと。
男女関係の場合はそのうちにっちもさっちも行かなくなったりすることもあるんですけど(笑)
よいグルはきちんとエネルギーが神につながって突き抜けてるから、
一時的に弟子の性質と混ざってにごっても、それを浄化して自分の場所に弟子を連れて行くすべをもってるというか。
グルにゆだねて、主導権を明け渡すと言うのはそういうプロセスを促進させるためにはどうしても必要なものだとおもいます。
しかしそこで、ほんとにゆだねてもいい相手に明け渡さないとむちゃくちゃになるんですけど(笑?)
場合によったら逆にグルのカルマをもらっちゃうこともあったりするでしょうし。
だから、外の世界にグルを見出すのは難しいし、
真のグル(サッドグル)を見出すまでに、その時その時の自分に最適なグルを必要な期間だけ体験するとかいうふうになって、
最後には真のグル、神の質に満たされたグル、もしくは神そのものをグルとすることができるんだろうと思います。
今のこの混沌としたカリユガ!(真偽がさかさまになってるような末期な世界!)の世の中で
一番安全なのは自分の中のサッドグル、アートマ、魂?の導きに従うことだろうと思います。
そしたらへんなグルのカルマをもらってどろどろになる心配もないし。
でもどんなへんなグルでもそれは自分の中から共鳴して外に現れてるものだから、
自分自身なんだろうと思います。
だからそこで、目の前に現れたものは何らかの形で自分にいいものを与えてくれるために現れてるんだろうと思ってます。
少なくとも自分自身の中のへんなものを見せてくれるわけだし。
同様に、サッドグルをサッドグルとして認識できるためには自分の中の汚れみたいなものをクリアーにして、
自分を魂そのものとして認識して認められるようになった時、
外の世界にもその反映としてのサッドグルが現れるんじゃないかと思います。
サイババにしても、名前を知ってる人は大勢いるわけですが、その存在をどういう風に認識してるかについては
人それぞれもいいとこで、
というのは、ああゆうサイババみたいな人は完全な鏡のようなものなので、
全ての人が自分自身の有様をサイババを通して完全な反映としてみることができるからだと思います。
サイババ自体、巨大なイリュージョンだと、知人は言っていたことがありましたが、
私も同感です。
でもほかのありとあらゆるイリュージョンをイリュージョンと見破るために使うことができる
有用なイリュージョン、最後まで持っていて、最後に手放すことができるものだと思います。
人間の姿をしたアバターをグルにするとなにがいいかというと、
特にサイババなんかはまだ生きてるので、
なかなかそういう存在に帰依するのは難しいんですよね。
その、強烈な個性と存在感に、個人性を持ったままでは帰依できないです。
本当に清浄な性質をつちかって、全てに従順でゆだねることを知った人とか、
なんらかの神に対する心からの信頼を持っている人は、同様の心境をババにたいしても簡単にもつことができる感じがします。
そうでない場合、
何らかの精神の飛躍が必要とされると思います。
もしくは何らかの形で精神的に一度死んだような人なら帰依できると思います。
もう死んでる聖者とかだったら、やはりシルディババにしても、そのエネルギーは働き続けてるにしても
この世界では終わっちゃってるので、個人性を保ったままでもその自覚なくきもちよーく帰依できたりすると思うのですが、
サティアサイの場合は、まだ生きてて強烈なので、無自覚なままではそっとしておいてはもらえないところがあります。
でもその代わり、ババに魂でかかわりだしてからの変容のスピードはすごく早いみたいです。
そういう強烈さは、アバターが生きてる時に彼をグルにもてる醍醐味だろうと思います。
強烈さはありとあらゆるネガティブな形としてあらわれてくるので、
その消え去るべきネガティブなイリュージョンを捕まえてそれとともに去っていく人もたくさんいると思います。
でも、わたしとしてはババの存在には一点のネガティブもないと確信しています。
なので、ババという巨大なイリュージョンの向こうから本質としての神が私自身として自らを与えてくれるときまでは、
ババに自らを溶け込ませる方向性を保ったまま、さまざまなイリュージョンをやり過ごして行けばいいんだろうと思っています。
そんなかんじですか。
いいこと書いたような気もするので、上の文章、ブログに転載してもいいですか?
これやると楽で(笑)
サイラム
古野SAWAKO
○○さんこんにちは!
そー、グルとかって、自分を変容させるためにはすごくパワフルなんだと思います。
男女関係を考えてみれば分かると思うのですが、
付き合ってるうちに相手の性質を吸収して、にてきたりするじゃないですか?
2人の境界が解けて、ひとつのエネルギーとして混ぜ合わされる時にはそういうことがすごく効率よく起こるという。
グルと弟子の関係もそれと同じくらい親密なものなので、
よいグルにつながれば、もう、自動的にどんどん変容していってしまうんですよね、きっと。
男女関係の場合はそのうちにっちもさっちも行かなくなったりすることもあるんですけど(笑)
よいグルはきちんとエネルギーが神につながって突き抜けてるから、
一時的に弟子の性質と混ざってにごっても、それを浄化して自分の場所に弟子を連れて行くすべをもってるというか。
グルにゆだねて、主導権を明け渡すと言うのはそういうプロセスを促進させるためにはどうしても必要なものだとおもいます。
しかしそこで、ほんとにゆだねてもいい相手に明け渡さないとむちゃくちゃになるんですけど(笑?)
場合によったら逆にグルのカルマをもらっちゃうこともあったりするでしょうし。
だから、外の世界にグルを見出すのは難しいし、
真のグル(サッドグル)を見出すまでに、その時その時の自分に最適なグルを必要な期間だけ体験するとかいうふうになって、
最後には真のグル、神の質に満たされたグル、もしくは神そのものをグルとすることができるんだろうと思います。
今のこの混沌としたカリユガ!(真偽がさかさまになってるような末期な世界!)の世の中で
一番安全なのは自分の中のサッドグル、アートマ、魂?の導きに従うことだろうと思います。
そしたらへんなグルのカルマをもらってどろどろになる心配もないし。
でもどんなへんなグルでもそれは自分の中から共鳴して外に現れてるものだから、
自分自身なんだろうと思います。
だからそこで、目の前に現れたものは何らかの形で自分にいいものを与えてくれるために現れてるんだろうと思ってます。
少なくとも自分自身の中のへんなものを見せてくれるわけだし。
同様に、サッドグルをサッドグルとして認識できるためには自分の中の汚れみたいなものをクリアーにして、
自分を魂そのものとして認識して認められるようになった時、
外の世界にもその反映としてのサッドグルが現れるんじゃないかと思います。
サイババにしても、名前を知ってる人は大勢いるわけですが、その存在をどういう風に認識してるかについては
人それぞれもいいとこで、
というのは、ああゆうサイババみたいな人は完全な鏡のようなものなので、
全ての人が自分自身の有様をサイババを通して完全な反映としてみることができるからだと思います。
サイババ自体、巨大なイリュージョンだと、知人は言っていたことがありましたが、
私も同感です。
でもほかのありとあらゆるイリュージョンをイリュージョンと見破るために使うことができる
有用なイリュージョン、最後まで持っていて、最後に手放すことができるものだと思います。
人間の姿をしたアバターをグルにするとなにがいいかというと、
特にサイババなんかはまだ生きてるので、
なかなかそういう存在に帰依するのは難しいんですよね。
その、強烈な個性と存在感に、個人性を持ったままでは帰依できないです。
本当に清浄な性質をつちかって、全てに従順でゆだねることを知った人とか、
なんらかの神に対する心からの信頼を持っている人は、同様の心境をババにたいしても簡単にもつことができる感じがします。
そうでない場合、
何らかの精神の飛躍が必要とされると思います。
もしくは何らかの形で精神的に一度死んだような人なら帰依できると思います。
もう死んでる聖者とかだったら、やはりシルディババにしても、そのエネルギーは働き続けてるにしても
この世界では終わっちゃってるので、個人性を保ったままでもその自覚なくきもちよーく帰依できたりすると思うのですが、
サティアサイの場合は、まだ生きてて強烈なので、無自覚なままではそっとしておいてはもらえないところがあります。
でもその代わり、ババに魂でかかわりだしてからの変容のスピードはすごく早いみたいです。
そういう強烈さは、アバターが生きてる時に彼をグルにもてる醍醐味だろうと思います。
強烈さはありとあらゆるネガティブな形としてあらわれてくるので、
その消え去るべきネガティブなイリュージョンを捕まえてそれとともに去っていく人もたくさんいると思います。
でも、わたしとしてはババの存在には一点のネガティブもないと確信しています。
なので、ババという巨大なイリュージョンの向こうから本質としての神が私自身として自らを与えてくれるときまでは、
ババに自らを溶け込ませる方向性を保ったまま、さまざまなイリュージョンをやり過ごして行けばいいんだろうと思っています。
そんなかんじですか。
いいこと書いたような気もするので、上の文章、ブログに転載してもいいですか?
これやると楽で(笑)
サイラム
古野SAWAKO