投影のカリスマと本当のカリスマ

投影のカリスマと本当のカリスマ

 

今朝見た夢では、海辺の開放的で気持ちいい半戸外の建物で大勢が集まってアルティをしていました。

 

そこで、最後に3回「ナラヤナナラヤナ........」とするところで、最初の2回をわたしが単独でするように言われ、最後の1回をみんなでするように言われました。

 

それには、エゴのある人が最初の2回をし、そして最後に全員で統合するというそんな象徴的な意味があるそうでした。

 

そうは言われたものの、わたしはひとりで朗々と歌うのが気持ちよく、高らかに歌ってアルティの火を掲げ、みんなに見えるように回しました。

 

楽しくアルティが終わり、

わたしが過去に好感を持っていた人やわたしに好感を持っていた人が話しかけてきて、楽しく受け答えしました。

 

 

主にそんな夢を見ました。

 

 

その後まだ布団の中でウトウトとまどろんでいると、人が投影によりカリスマ化される仕組みが情報として入ってきました。

 

カリスマ化される対象と、投影によってそれを起こす群衆側の意識状態のプロセスが情報として入ってきました。

 

その情報についてしばらく考えるともなく考えて、布団から出ました。

 

 

カリスマはつまり、群衆をまとめるアイコンなのですね。

 

 

群衆の意識状態の中のある側面をつなぐアイコン。

 

カリスマという外部に特定の投影対象を見ることによって、群衆の中にはそれぞれある好ましく陶酔的な意識状態が固定されるし、そこに心地よさがあるからカリスマは群衆に求められるし熱狂的に支持され、依存されるみたいです。

 

依存対象であるとも言えるし、文字通りカリスマによって群衆一人一人の存在が意識面から支えられているとも言える。

 

群衆はそのためにカリスマを使用しているとも言える。

 

そしてその好ましい意識状態というのはすでに群衆それぞれの中に元々あったものではあるのだけれど、彼らは自分でそれに集中し続けることができず、でもその意識状態に留まりたいとどこかで思っている。

 

そんな時に、その心地いい意識状態に固定してくれるカリスマの存在は非常に心地よく好ましいものになります。

 

これは個人レベルでも常に起こっていて、ある人を思うと明るい気持ちになるとか、その素敵な人の世界の中では自分にも力があるのを感じられたりとか。

 

お互いに完全を投影して愛し合っている恋愛関係初期ではそういうのも顕著かなと思います。

実際その時、お互いの最も良い部分をお互いに固定することが起こっているからこそ陶酔的で心地いいのだと思います。

わたしはそういうわけで、それが完全な幻だとは思いません。

 

そしてこれが複数の人が関わるようになればなるほど、その投影対象はカリスマと呼ばれるようになっていきます。

 

つまり、ひとりの人にみんなが恋しているような状態です。

 

そしてそこには投影する人の自分自身の空洞化が現れます。

 

言い換えれば、恋している時にはそれまでの自分を忘れて心地よい世界に逃げることができます。

 

それでもしかし一人一人の人の持つ意識の力は健在で、その力は投影先のカリスマによってまとまって、そこに大きな使用可能なエネルギーの集積を生み出します。

 

それが当のカリスマ以外の権力を持つものによって嫉妬され、恐れられ、攻撃される対象になる理由だと思います。

 

しかしわたしの興味はそこではなくて、

カリスマ本人はどうなのかということです。

 

わたし自身、これまでに時々カリスマ性があると言われることもありました。

 

わたし自身は自分のことを個性も中身もない空っぽな人間だとずっと感じていたので(今もですが)

 

そのカリスマ性とは、他の人の期待や投影を感知して受け取る力、という部分によるところも大きかったと思います。

 

そして自分が希薄なわたしなので、わたしという存在にアクセスする時に必然的に人は潜在意識とか超意識とかそういうレベルのものが刺激されることも多いのかなと思います。

 

わたし自身、そういう部分で生きてきたことが多かったと思います。

顕在意識が上手く働いていないまま生きていた。

 

だから、わたしが自分自身に関してずっと感じていた、わたしは個性も中身もない人間だというのは、自分の顕在意識の部分の欠落を感じての印象だったかもしれません。一般的に機能する顕在意識の波長をわたしは持ち合わせてなくて、他人とその部分でコミュニケーションをとること自体意味不明で途方に暮れていました。

 

だから、どうやったら普通に機能できるようになれるのかなと、困惑していました。

 

わたしを最初に投影対象として使用し、カリスマ化したのは母だったと思います。

 

母にとってのカリスマとしてわたしはとてもよく機能しました。

 

 

 

親子関係の特に初期には赤ん坊は非常に受容的ですし、そういう親にとって楽しい投影が起こりやすいので、一種の美しい恋愛関係のような陶酔的な楽しさのある時だと思います。

 

それがあるから、投影対象の好ましくない言動も好ましく受け止めたり解釈したりもできるかと思います。

 

そしてそういう陶酔的な関係の外にある人から見ると、それはまた違った感情を起こさせるもので、共鳴して、好意的にほほえましく受け取る場合もあれば、シラーっと冷めた感じで受け取る場合もあるかと思います。

 

なんにしろ、そのような陶酔的な関係性、投影が起こり、それを受け止める関係性においてはなんらかの空洞が必要な気がします。

 

外部に良いものを投影して陶酔する人は内面に空洞を抱えていて、そのような良いものを自分の中に保持できないなんらかの理由があるから投影します。

 

もしくは、投影した相手に夢中になるという依存形式を単純に好む、という、単なる好みの場合もあるかもしれません。

 

そしてわたし自身で言えば、投影される側は内面が空洞だからこそ、他人からの良い投影で自分の本質を満たすことが自然です。

そうされることが苦しくないし、それが自分なのかな?と他人からの投影にすぐに乗れます。

 

つまりこれは完全な共依存とも言えますし、

べつにこれを病んでる扱いしなくとも、

それは単に陶酔的で心地よいレクリエーション形式としてもいいのかもしれません。

 

何も、なんでも断罪する必要はないと思うので。

 

でも、他人からの良い投影を受けて自分は良いものなんだと思えると同時に、自分の中には何もない、他人はわたし自身を見ているのではない、という気持ちはわたしの場合は消えませんでした。

 

そしてたまに悪い投影をされるときには、それにもそのまま真実味を感じで、わたしは悪いものなのかも、と思って大きく動揺しました。

 

つまりこの世界で他人に自分の存在をものすごく依存していたのはわたし自身でもあったのです。

 

わたしは他人の気分を害さない限り、空っぽなわたしのことを良く扱ってくれるものだ(良く扱う義務がある)という前提のもとで、他人の投影を受け止め、意向を最大限に汲むという処世術で生きていました。

 

そうする自分はまるで善の化身のようだったし、自分でもそれを信じきるようにしていました。

 

そしてそれがなんであっても、信じきるというのは人を純化します。

 

その意識状態が極まり、ある種の圧が十分高まると、どんな分野であっても、どんな状況であっても、人は突然個人の枠を超えて宇宙全体の意識に衝撃的に解き放たれ、しかしそれを既知のものとして体感する瞬間が訪れるものなのだろうと思います。

 

わたしにその瞬間が訪れたのは21歳の時でした。

 

そして不思議なことに、それ以降わたしはそれまで取りこぼしてきた負の部分をいちいち丁寧に拾い集めるような人生になりました。

 

人の期待に応え、他人の感情の世話をするよりも、自分自身にもっと注目してそれを知り、それに応えるようにこころがけました。

 

ですから実際生活では悪く思われることや非難されることがすごく増えました。

 

そしてそれは心地いいことではないので、

そのたびにそれ(わたしは邪悪な存在であるという他人の評価)を信じてしまっては、なぜだろう?と苦悶しました。

 

実際は、良い投影がわたし自身を見て言われたものではなかったように、

悪い投影も、わたし自身を見て言われたものではなかったのです。

 

つまりわたしは他人からの投影を、いいものもそうでないものも、受け取って自分に適用するのをやめました。

 

他人からの投影を自分理解に流用するような空洞の関係性の連鎖にない人、つまり本当に自分自身を生きている、地に足のついた実力のある人は、他人がその人をカリスマと呼びたくて呼んだとしても、たんに実力のある、中身のある人なんだと思います。

 

投影することもされることも、自分自身の中にいないということだと思います。

 

それは個を超えるからこそ、時に合わさって、宗教的な熱狂のような大きな力を生みます。

 

そしてそこにはいつも陶酔があります。

 

わたしはそれは決して悪いものだとは思いませんし、純粋な生きる力、生命力そのもののあらわれだとも思います。

 

しかしそれは人間として生きるということではないと思う。

 

個人が凌駕される熱狂の中にいることほど最高な気分のことはないと思います。

 

でもそれは、人間として生きることでは、ないのだと思います。

 

それは実は自然の一部として生きるということにも似た状態だと思います。

 

だから決して悪いものではないし、とても自然な本来的な状態だと思います。

 

激しくエネルギー交流が起こっているため、とても気持ちいいものでもある。

 

 

ここからは個人の好みだと思うのですが、

わたしは人間として生きてみたいなと思うのです。

 

あんた人間でしょ?笑

 

と言われるかもしれないけど、

そうでもなかったと自分の感覚は言うのです。

 

人間としての、最良の人生を経験したいと思います。

 

そのときもし人がわたしをよく思ってくれるなら、それはその人が自分自身の良さを知ってるからこそ、自分のことのようにわたしを認識できるのであって、投影ではないのだと思います。

 

そしたらわたしもその人を尊敬できるが故に、そういう評価はとても嬉しいし受け入れられると思う。

 

右から左へ価値や評価を投げつけ合うような空洞の関係性、投影の連鎖ではなく、そのような、それぞれの場所にいながらともに響き合う愛の連鎖がわたしは欲しい。

 

まだそれを希求しているわたしがいます。

 

 

つまり何かがまだ外に漏れている、いろんなことを外側に投影しているわたしがいるということです。

 

 

夢でアルティの3度の繰り返すフレーズのうち、エゴのあるものが行う最初の2回をさせられたことは嬉しかった。

 

わたしは少なくとも自分自身の場所にいる。

 

そんな気がしました。

 

 

そうするとわたしは自分が好ましく思うひととも、自分を好ましく思うひととも関わることもできます。

 

3回目のフレーズをみんなで歌ったように、最終的にはそれらの個人的な好みを超えた世界で統合されてしまうことはおそらく予定調和として必然のことかもしれません。

 

 

そうなると、投影し合う小さなつながりも押し流されて切れてしまい、

投影されるカリスマと投影するものたちの間で行われていたお互いの空洞の中を行き来していた閉じたエネルギーも解体され、解き放たれて、宇宙全体の歓喜のエネルギーの中に溺れます。

 

そうなると、もう、わやです。

 

 

終了させないように長く遊ぶ、これはそういうゲームなのかなと思います。

 

本当のカリスマとは、このあらゆる意味で豊かなゲームが終わらないように、この興奮や悲しみの陶酔を長く楽しめるように、一つ一つのプロセスをあらゆる角度から複雑に楽しみつつ、芯では永遠に明晰で醒めている、わたしやあなた自身の姿形を超えた本質そのものなのだと思います。

 

同時に人間としてのわたしたちはみんな、誰よりも密やかなその静寂のカリスマに拠っている、空虚だけど豊かな存在なのだと思います。

 

そのとき静寂のカリスマもまた、私たちに魅せられている。

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日本に帰国しました。

スリランカに行くか日本に帰るかでギリギリまで迷ってましたが、今日無事日本に帰国しました。

(1ヶ月くらいでまだインドに行く予定です)

 

ひとつの座席で1歳8ヶ月の子と7時間過ごすのはちょっと何かの罰ゲームのようでしたが、とにかく長野に戻りました〜。

わたしの方は明日から業務再開します。

 

成田空港でリラックス中の息子2

 

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2017年9月19日に先祖供養のスペシャルプージャ (マハーラヤアンマーワーサイプージャ)を実施します。

Om Sri Sai Ram

9月19日に先祖供養のスペシャルプージャ

(マハーラヤアンマーワーサイプージャ)を実施します。

 

お申し込みは下記リンクよりどうぞ。

↓↓↓

http://premasai-jyoti.shop-pro.jp/?pid=122411878

 

 

3万円で亡くなったご家族の何名でも供養できます。

ペットも可。

 

お申し込み時には以下の情報を添えてお申し込みください。

・申込者のお名前とナクシャットラ(バーススター)、もしくは生誕情報(生年月日、生まれた時間、場所→市くらいまで)

・供養を受ける方のお名前と、申込者との関係、その方が亡くなった年月日

 

また、特定の故人ではなく、ざっくりと先祖全体を供養することもできます。

 

この供養のプージャは先祖供養に非常に適した聖地ラーメーシュワラムで行われます。

一つの申し込みに対して専属の僧がついて、一つの独立したホーマムが行われます。

 

このような特に効果の高いマハーラヤアンマーワーサイのタイミングで先祖供養を行うことにより、霊的、物質的な大きな発展が望めるとのことです。

 

 

お申し込みは2017年9月18日まで受け付けます。

 

よろしくお願いいたします。

 

サイラム

 

 

 

 

※英文説明は以下に貼っておきます。

 

AUM SRI SAI RAM

MAHALAYA AMAVASYA
06 – 20 September 2016

rameswaramtyempleMahalaya Amavasya is the no moon day in the Tamil month of Purattaasi and is considered highly auspicious for performing rituals to the dead like Shraddha and Tarpana. Mahalaya Patsam from September 06 to Amavasya on 19 Septembar, Utthram. The star-asterism is also auspicious to Lord Siva. Important rituals on the day include performing rites for deceased ancestors in sacred Teerths and riverbanks and also taking a holy dip in sacred rivers and spots. This year, Mahalaya Amavasya puja will be conducted from 06 September to 20 September. . Mahalaya Patsam from September 06 to Amavasya on 19 after noon and 20th before 11.34am wednesday, Septembar, Utthram.


Mahalaya Amavasya – 06 – 20 September 2016

For period of 14 days pooja will be held at Rameswaram. Pooja will be conducted on each day . Mahalaya Patsam from September 06 to Amavasya on 19 after noon and 20 th before 11.34am Wednesday, Septembar, Utthram.

Interested persons and all people can contact us for doing tarpanam. This year we are doing tarpana pooja at Rameswaram.

Devout Hindus perform holy bath in various scared rivers, seas and sacred ponds or Teerthams in Tamil Nadu. Thousands of Hindus take a holy dip and perform rites to the dead ancestors at Agni Theertham in Rameswaram, Thriveni Sangamam in Bhavani and Kannyakumari and various holy spots on the banks of Cauvery River.

Shradh (spiritual effort, spiritual activities) and pitr tarpana (rituals for the deceased in one’s family – maternal and paternal) is considered highly beneficial for the people participating.

 

rameswaramtyemple

 

Rituals

One important ritual in Hinduism is tarpana. Tarpana means “satisfying” or “satiating”. One acknowledges the debt one has to devas (gods), rishis (sages) and pitris (ancestral manes) and tries to satisfy them using this ritual. Just as gods are invoked in fire in a homam, pitris are invoked in water in this ritual, then held in the palm and released in a specific way conducive to freeing them.

One owes a lot to one’s parents and ancestors. In modern scientific terms, one owes all of one’s genetic characteristics to one’s parents and ancestors. Each ancestor is actually present in the person as a genetic characteristic. In karmic terms, one inherits some karmas of one’s parents and ancestors and each ancestor is actually present in the person as a karmic history and obligation for up to 7 generations. The latter approach obviously extends to many past lives and some karmic predisposition is inherited from the ancestors from a past life also, though they may not be related to one in this life.

By recalling the deceased ancestors with gratitude and trying to give them an emancipation, one is actually trying to free oneself from various karmic obligation that one has as a result of the rina (karmic debt) with several people. If death anniversary of ancestors are not known or forgotten then those Shraddhas can be performed on this Tithi. That’s why Amavasya Shraddha is also known as Sarvapitra Moksha Amavasya.

Two external spiritual sadhanas are particularly powerful, useful and recommended for every person desirous of fast spiritual progress:

Homam (fire ritual): Gods are invoked in fire and satisfied with offerings with mantras. In summary, a regular practice of this ritual increases the subtle fire burning inside one’s subtle body, burns various impediments to spiritual progress and gives clarity, focus and stability to the mind.

Tarpana (water ritual): Gods, sages and manes are invoked in water and satisfied with emancipation given to them. To summarise, a regular practice of this ritual increases the release of various karmic predispositions and weaknesses that are blocking one’s spiritual and material progress.

This year, . Mahalaya Patsam from September 06 to Amavasya on 19 after noon and 20 th before 11.34am wednesday, Septembar, Utthram.. 

楽園を楽園と実感できた今日

最近、日本でインドの観光ビザを取ると連続して滞在できるのは90日まで、というような但し書きが付いています。

 

ビザ自体は180日なんですが。

 

だから、3ヶ月くらいしたらどこかよその国に一旦でないといけません。

 

私は今回の滞在は3ヶ月くらい、と思っていたので、なんとなく行きが6月24日で帰りは9月23日にしていたんですが、それだと92日でした。

おしい!

 

なので、90日になる前にどこかよその国(近いとこだとスリランカとか)に出るか、帰りの日程を早めるか、もしくは2日過ぎても大丈夫なように警察に許可を取ってみるか、しないとなと思ってて、

どうするかすごく迷ってるうちに9月の半ばになってしまいました。

 

日帰りででもスリランカに出て、インドに帰ってきて、今のビザが切れる12月までさらに3ヶ月いて、12月に日本に戻らずにスリランカにまた行って新しいインドビザをスリランカで取ろうかなとも思ったのです。

ちょうど、毎年いつもインドでヴェーダチャンティングの練習をしてる、リシケシ在住の知人夫婦もその頃スリランカにビザを取りに行くみたいだったし、一緒に行ったら面白いんじゃないかとか思って。

ヴェーダの練習もできますし。

 

なんか最近はスリランカでは1年ビザが取れるという噂もあるし、少なくとも半年ビザに90日限定の縛りもないみたいですし。

 

あと、日本に帰る気が起きないというのもあって。笑

 

でも結局はいったん日本に戻ることにしました。

 

で、プッタパルティの旅行代理店に行って、帰りの日程変更をやってもらいました。20日か、19日に帰国ということで。

 

そしたら滞りなく日程変更できたんですが、

19日でチケットを取ってくれてました。

 

思ってたより一日早かったので、なんだか無性に寂しくなりました。

 

プッタパルティは最近蒸し暑いし、しょっちゅう停電になったり、水の出が悪かったりで、嫌になることも多いんですが、(飲み水のボトルの蛇口から水を出したらゴキブリの卵が出てきたり)

 

大変なのに、なんだかんだいって、私はプッタパルティに入るとすごく楽しいんだなあと改めて思いました。

 

なんか、人生が無駄になってない感じがするんだと思います。

 

たぶん、あんまり楽しくないけど平穏て感じだったら、せっかくの命を生ききってない感じがして、人生を無駄にしてるみたいな感じがするんだと思います。

 

帰りの日程が決まって、落ち着く感じもあるのだけど、やっぱり、離れがたくて寂しいです。

 

20数年前、初めてインドに、プッタパルティに来て、わたしが乗った帰りのバスが帰路に着いた時、やはりすごく寂しくて切ない感じになり、

「また必ず戻ってこよう」と、いつもの私じゃない、深いところの私が呟いた声を聞きました。

 

プッタパルティは現在私が一番面白いと感じる場所なんだと思います。

サイババが生きてた時は強烈すぎてほんと大変だったけど、(スケジュールも過酷だったし)

今はもっと落ち着いた安らぎがあります。

 

そしてやっぱり面白い。

 

何が面白いって、

いろんな国の人たちや日本の人たちみんなと魂でしか繋がれない場所だからだと思います。

だから面白い。

 

他の場所だったら、少なくともわたしは言葉もろくに通じないようないろんな国のいろんなバックボーンを持った人たちと、こんなに魂のふれあいばかりの関係は持てないと思います。

 

だから、自分がとても生き切れてる感じがして、そんな自分が好きだなと思える場所。

 

だから、嫌なこともうんざりすることもたくさんある過酷な場所ではあるのだけど、いつも去りがたく、いつも帰ってきたいと思える場所であり続けるのが、わたしにとってのプッタパルティに、なってます。

 

でもずっといたらさすがに疲れるので、たまによその国や場所に行ってリフレッシュするのがベストだと思う。笑

 

とにかく、9月19日の便で日本に戻る、はずです。

 

そして10月25日くらいにまたインドに戻るつもりなんですけど。

 

11月19日・20日の、プッタパルティでの国際ヴェーダ大会みたいなやつにもエントリーしました。まだ返事はないけど。

 

そうそう、今日、前のヴェーダの先生であるおばあちゃん先生がプッタに来てると聞いて、探したんだけどわからなくって、おばあちゃん先生の友達のおばあちゃんに聞いたら「来てない」って言ってました。

 

来てたら会いたかった。

 

その後、おばあちゃん先生のところに来てたヴェーダ仲間のインド人のおばちゃんに国際ヴェーダ大会みたいなやつの話をしたら、彼女も参加する予定と聞いて、嬉しかった。

 

プッタパルティは楽しいことばっかりです。

 

みんな優しいし、最近は幸運にも毎日某パンディットのレッスンにもあずかれて、さらに生きがいを感じます。

だから、日本に帰りたい気が全然起きない。

 

日本の人もみんな優しいけど、面白みが薄くって。

インドが気合が入りすぎ、パンチが効きすぎです。

 

もともと、2006年以降に上の子と一緒にインドに長期滞在し始めた時も、なんか、わたしの日本のカルマが終わっちゃったような気がしたものでした。

日本で何も欲しいものがなかった。

 

インドではサイババもいてものすごい面白かったし、ヴェーダの本場だし、子供はみんなに寄ってたかって可愛がってもらえるしで、強烈に面白いことがたくさんあったので頑張って滞在しました。

 

でも、自分の個人的な努力でそのような状況を享受できるとも思わなかった。

 

だから文字通り、ありがたいなとしみじみ思って、こういう稀有な機会は望んで得られるものではないと身にしみて、必死で子連れで生きました。

 

今はどうなんだろ。

 

今はいろんな自覚自体が薄くなってるし、

人生の方向性も喪失してて、

ある意味すごく今の瞬間にただ生きてる状態かもしれません。

 

過剰な責任も持ってないです。

過剰な責任感て、やっぱりそれは個人からのものだと今は思います。

昔はすごくいろんな責任を負っていました。

 

わたしはとにかくこの人生を最大限に楽しく、面白可笑しく生き切りたいなと、ただそれが望みです。

 

今日、帰りの便が確定しちゃって、すごく寂しくなったんですが、それだけわたしはここの場所や、ここの場所で出会う人たちとの関係性を愛してるんだなと自覚できて、今ここにいることの奇跡を感じ、非常に幸福な気持ちにもなりました。

 

祈りの中にいるって、こういうことなのかと思いました。

 

ここプッタパルティにいて、そのような幸せな気持ちを感じて満たされると、ここにいてももう何もいらないし、ここで満たされたまま死にたい人が多いのもよくわかります。

 

不思議なもので、物質的には質素な部類の暮らしかもしれないけれど、こんなに豊かさを感じられるのはそこに集まる人の意識が何に向けて開かれているかに尽きると思います。

 

やはり、神への愛に満ちた場所であるプッタパルティは地上の楽園の一つだと思います。しかも面白い。

 

サイババにあって、わたしは自分の人生、めちゃくちゃになっちゃってない?と思うことも多く、ババに会ってよかったかと聞かれると、わからない、と答えちゃうわたしなのですが、

今日は幸せだった。

 

こういう幸せをいつもだれかと分かち合っていたいです。

 

 

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ヴェーダ練習中の覚書20170909

ヴェーダ練習中の覚書20170909

 

今日もヴェーダチャンティングの練習に行きました。

 

11月20・21日にプッタパルティでヴェーダのプログラムがあって、日本からは誰も参加しないのかなーとか思ってて、

インドのサイトには事前登録が必要とあったので、どうしよっかなーと思ってました。

 

今教えてくれてる某パンディットが、再三、参加するのかと聞いてきて、グループを組織して参加するようにとまで勧めてくるので、とりあえず申し込みしとこうと思ったら、インドのサイトではインド人しか申し込めないみたいだったから日本のサイトを見たらそっちでも申し込みできるようになってました。

なので申し込んでおきました。

申し込みフォームができてるくらいだから、日本からも人が来るんでしょうね?

 

で、練習でそういうことを話したりとかしてて、

ムッダナハリの話も出ました。

 

サイババが亡くなってから団体がもともとの組織と、ムッダナハリグループとに分裂した状態にあるんですが、

 

まあ、今回のその大会はもともとの組織主催のもので、ムッダナハリグループはそっちはそっちで何か色々してるみたいです。

 

神は無目的に全方向に拡大していくものだから、分裂したりするのもそういうものだみたいな見解で。

10年後とかにはムッダハリグループも3つくらいに分かれて、もともとの組織もさらに10つくらいに分かれてるかもしれないし、と、冗談交じりに言ってました。

 

まあ、そんなかんじですよね。

 

1歳7ヶ月の息子も連れて行ってるんですが、もちろん好き放題してて、

「神が最初に人間を作った時はきっと彼のようだっただろう」

とか言われてました。笑

落ち着きなくわけのわからん言語を叫びながら動き回って好き放題するという意味で。

 

部屋から飛び出していったかと思ったら猿のうんこを踏んで帰ってきたり。

 

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